【おちょやん・あらすじネタバレ】16週「お母ちゃんて呼んでみ」感想と寛治のモデル藤山寛美はどんな人?


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【おちょやん・あらすじネタバレ】16週「お母ちゃんて呼んでみ」感想



3月22日(月)
昭和12年(1937)、千代は30歳になりました。
亡きテルヲの借金をやっと満額シズにお金を返すことができ、シズは当時の日中戦争をモチーフにした「頑張れ!集配婆さん」のおかげで岡安も繁盛していると喜んでいます。
その頃日本は日中戦争に勝利していたので、日本中が沸き上がり盛り上がっていたのです。芝居も忙しく、千代は子供には恵まないものの、劇団員の人たちが子供みたいなもののように、忙しい毎日でした。
その「頑張れ!集配婆さん」千秋楽日に楽屋に知らない男が家探しをしていて泥棒だ!と座員は大騒ぎになります。ところがそれは大山社長の命により面倒を見てくれと命の下った、身寄りのなくなった15歳の少年・松島寛治でした。結局、千代と一平の家で寛治の面倒を見ることになりますが、ちゃっかりとした性格の寛冶に気をもむ千代は子供を持つ気持ちはこんなものか?と思います。


3月23日 (火)
身寄りのない松島寛治は、一見すると天真らんまんな振る舞いなのですが、どことなく違和感をおぼえる千代。それでも身の上を思いお母ちゃんのように振る舞おうとする。ある日、福富楽器店で寛治は、戦争ごっこ好きの息子とかみ合わない福助から、吹いてみたいとトランペットを拝借する。しかし手を滑らせてしまい傷つけてしまう。だが嫌がる一福に無理やりやらせようとしているのを止めたかったのが本音だった。
一平は鶴亀社長から劇団の準備金をあずかり千代がはりきって寛治の面倒を見てると伝えるが、鶴亀社長社長は実は寛治に手を焼いていて、そこへ警察が訪ねてきた。
千代は寛治に「お母ちゃんと呼んでみ」とだまし討ちで嫌いなニンジンを食べさせて喜んでいた。そこへ突然、高城百合子と小暮真治が訪ねてきた。驚くことに二人はすでに結婚していて、芝居をできる場所を探しながら、全国を回っていた。列車が雪で足止めをくらい、千代のもとを頼ったのだった。久々の再会に、楽しい夜を過ごす四人だったが、百合子と小暮はある秘密を抱えていて2人の事は誰にも言わないでほしいと言う。一方、二階で聞き耳を立てる寛治に笑顔は無く…。

3月24日 (水)
2人は社会主義思想になっていて、それを広めようと芝居で演じるので思想や言論を取り締まる秘密警察、特別高等警察に追われる身となっていた。千代は百合子から「今の家庭劇で芝居を続けるのはいいのか?」と家庭劇で媚びるように戦争モノを取り扱い客を喜ばせていると罵倒される。傷つく千代だが「自分は喜劇役者なので、お客さんが喜んでくれればなんでもいい」と毅然と答えた。あなたとは分かり合えないとは言われたが千代が女優としてしっかりした考えがあるのでそれを貫きなさいと百合子は言う。
千代と一平は、二人を何とかかくまおうと試みるが、居場所を突き止められ、家の中に踏み込まれてしまう。

3月25日 (木)
秘密警察に千代は知らないと言い張るものの、家捜しの手をゆるめずじりじりと追い詰められていく。だが千代が寛治に協力させて一芝居打つことで秘密警察の捜査をごまかすことができた。
ソ連に亡命する百合子に「役者になるきっかけをくれてありがとう」と別れの抱擁をし2人は無事旅立って行った。
その後すぐ、一平が鶴亀社長からあずかった準備金がないと騒ぎ出し、千代と2人になった寛治バボクが盗んだと白状した。それは父親に見切られた恨みからくる世間や大人全般への不信感から来るものだった。

3月26日(金)
大山社長は寛治を見限ると言うが、千代は監督不行き届きの自分が悪かったと謝る。だが寛治の性根は治る気配がない。
新聞には百合子と小暮が亡命した記事がのり、それに背中を押され、寛治とあらためて話し合う時間をつくる…千代と一平はそれぞれ親子関係で苦労し、悩んでいまに至り、同じ境遇の寛治をほおっておけない事、一緒に暮らし家族になろうと寛治を抱きしめ、心を開くのだった。
一平は百合子と小暮を思い、つらい状況にいる人に優しい芝居「人生双六」を書いた。その舞台には寛治も千代の隣で芝居をしていた。

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【おちょやん・あらすじネタバレ】寛治のモデル藤山寛美はどんな人?

今週は、新たなキャラ寛治が登場し、自制も合わせた一波乱のお話でした。

この寛治のモデルは、戦後昭和の上方喜劇界を代表する喜劇役者「藤山寛美」のことです。
上方芸能は関東地方の人は知らない人もわりといるのですが、女優の藤山直美さんは、寛美の娘さんでテレビにもたまに出演されますが、たしかに藤山寛美のDNAを引き継いでいるな、という佇まいからして面白い女優さんです。

【藤山寛美の生涯】
1929年(昭和4年)寛美誕生:関西新派「成美団」の俳優・藤山秋美の末の息子として大阪府大阪市西区に生まれる。
1933年(昭和8年)寛美4歳:父の病没、花柳章太郎の命名で父の藤山を継承し芸名を「藤山寛美」とし、翌年1月初舞台に立つ。
1942年ころ 寛美13歳:関西新派の都築文男に師事し、渋谷天外 (2代目)に誘われて松竹家庭劇に移るまで師弟関係になる。大阪大空襲で大阪の芝居小屋が焼け落ちる。
1945年(昭和20年)3月寛美14歳:皇軍慰問隊の一員として旧満州に渡る。
          8月 奉天(現在の瀋陽)で終戦を迎え、一時期ソ連軍に抑留。解放後ハルビンでキャバレーのボーイ、靴磨き、芝居、ブローカーなどする
1947年(昭和22年)寛美18歳:帰国後、各劇団を転々とし曾我廼家十吾、師匠格に当たる2代目渋谷天外、浪花千栄子らの松竹新喜劇の結成に参加。
1951年(昭和26年)寛美22歳:渋谷天外作「桂春團治」の酒屋の丁稚役で一躍人気役者となる。
※1951年(昭和26年)渋谷天外(45歳)の浮気で浪花千栄子(44歳)と離婚。
・型破りに金使いが荒く松竹からクビにされる
1966年 寛美37歳:借金総額で1億8,000万円で自己破産。松竹と松竹芸能から専属マネジメント契約の解除通告。事実上解雇。
・東映の常務・岡田茂を頼り、東映任侠映画に出演で生活をしのいだ。
・天外からは事実上、その時点で「破門」の扱い。復帰後は破門を解かれた。
・新喜劇復帰
だが新「松竹新喜劇」は寛美がいた時期ほど客足がのびず、師匠2代目渋谷天外も脳出血で倒れた事もあって、ついに松竹は寛美の負債を立て替えて、再び舞台に呼び戻す事になり実質座長となる。
1971年~1973年 寛美42歳~45歳 プロデューサーとしても活躍し芸術選奨文部大臣賞を受賞。人気、芸ともピークに達す。
晩年
1977年 寛美47歳:ワンマン体制でマンネリに陥り、有力な座員、曾我廼家鶴蝶、小島秀哉が退団 
1980年~寛美50代:東京、大阪公演の観客数も減少、
1990年 寛美60歳:3月肝硬変と診断され、同年5月21日に60歳で死去

「おちょやん」では昭和12年(1937)に寛治と出会うことになりますが、実際は昭和17年(1942年ころ)13歳ころからの出会いから慰問隊として満州にわたるころまでを描くのでしょうか?
またポイントは「寛治の金遣いの荒さ」を表現するようです。
これは藤山寛美の実母・新町のお茶屋「中糸」の女将・稲垣キミの「遊ばん芸人は華が無うなる」という一家言を守り、夜の街を金に糸目をつけず豪遊した、と言われています。
とはいえ、藤山寛美の家族はその破天荒な借金と生活のせいでずいぶん苦労しました。藤山直美は父・寛美の2度目の妻の子で異父姉妹(上2人は母の連れ子)は5人ですが唯一、後を継いで役者になったのは藤山直美さんだけです。
藤山直美さんは喜劇王・藤山寛美の娘で親の七光りでもありますが、そのセンスと才能は「父を超えている」と言われています。


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