【おちょやん・あらすじネタバレ】9週「絶対笑かしたる」と千之助のモデルは誰

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【おちょやん・あらすじネタバレ】9週「絶対笑かしたる」

2月1日(月)
昭和3年(1928年)夏、千代は4年ぶりに道頓堀へ戻ってきました。
岡安に行った千代はみつえや福富の息子・福助の様子から岡安と福富は相変わらずと思った(が、なんだか2人はソワソワした様子)
芝居茶屋の商売は衰退しているようで、福富が新たに始めたジャズ喫茶に憂いを覚えるシズだったが、千代には「岡安はずっとこのまま」と言い住み込ませることにし、その様子に女中頭かめは不安そうに見ていた。
新たな喜劇一座に参加する役者の顔合わせでは一平が座長として紹介されたが、須賀廼家千之助が参加しないことを知った元・天下一座の役者たちは次々と辞めると言い出す。

2月2日(火)
このままでは一座を立ち上げられない。千代にとっての一大事に「千之助を連れてくる」と千之助宅へ意気込んで説得に向かう。千之助は「万太郎には勝てない」とスネているので「人は変われる、自分がそうだ」と意見すると「ここで何かやって笑わせたら戻る」に千之助に一発ダジャレかまして追い出される千代。劇団員やおちゃこ仲間の前で練習も「千代ちゃんかわいそう」と同情されるレベルだった。
一平もずっと勉強し書いた脚本を離れた役者に戻ってもらうよう頭を下げるがいい返事はもらえない。
岡安ではみつえから「シズから芝居茶屋に将来性がないので嫁入りを進められている」と聞きショックを受ける千代。そこへ岡安に居候している一平が戻り千代は「劇団一つにまとめるのがあんたの仕事やろ」と言うが、一平は「お前は自分の都合だけで動いてるだけやろ」と言われる。
鶴亀社長は早世した初代天海天海の為にも、2つの一座を競わせ道頓堀の不景気対策と活性化を図りたいという悲願があり、一平に託されたこの計画の失敗した場合は道頓堀に戻れなくなる命運のかかったものだと知らされる。千代は焦って千之助の説得に飛び出し一発芸を披露している頃、一平の脚本を読んだ座員が「一平のおかあちゃんを思い出した」と戻ってきてくれた。

2月3日(水)
一平は岡安先代女将ハナからも「一座の成功は岡安の悲願」と言われますますプレッシャーが大きくなる。
千之助を攻略できず苦しむ千代に座員はやはり「千之助はいたほうがいい」と言い、一平は良くない顔をするが、まずは万太郎一座に移籍した“徳利”の説得に行った。そこで千代は万太郎のすごみを知る。
その頃、岡安ではおちゃこの一人が売り上げ減少を気にし暇をもらう話を一平は聞いてしまう。
“徳利”が万太郎一座で嫌がらせを受けて出てきたところを千代はつかまえて接待し、千代の機転と思いやりで徳利が戻ってきてくれた。
「あとは万太郎だけ」と皆で喜んでいたところに一平は漆原に「やめてもらいます」と言い出す。

2月4日(木)
一平は「自分の喜劇に女形は要らない」と言い万太郎一座に対抗するための新しい喜劇を作るには、古くさい女形の役者は要らない「男役をやって欲しい」との提案を受け入れることができない漆原。
千代は一平に抗議をするが、無理やり引っ張り込まれた福富の喫茶店で一平から岡安は不景気だがお茶子の首を切らない、一平は新しい芝居の為に座員を切るとの覚悟にショックを受ける千代。
漆原は一平以外の劇団は考えられず、他の誘いを断り、道頓堀を出る決心をする。
その頃20年前、千之助は万太郎一座座員だったが一座を追われ、窮地に追い込まれていたところを、早世した初代天海天海に救われた恩義があり、天海の葬儀の時の万太郎の言葉を憎み、一平と芝居での意見の食い違いに苦しんでいた。
漆原が道頓堀を出ていこうとしたころ、女形仲間が一平に仕返しをする現場に遭遇。仲裁に入ったが一平が「時代遅れのお払い箱や」との悪態に今までの憤りが爆発。漆原は我を忘れて一平に殴り掛かる…

2月5日(金)
漆原は一平を殴り続け、倒れた一平は「これやったら…できるやないか男役」と漆原から男役を引き出し奮起させるために怒らせたのであった。千代は「一平は殴られたかったんやないか…」と思った。
そして「千之助さんから逃げるな」と一平を説き伏せるが動こうとしない一平。徳利、晴天は先に千之助を説得に来ていて、千代も参加するがどうにもならない。その時ケガでボロボロの一平がやってきて「日本一の喜劇一座にしたい」と頭を下げる姿が天海と重なって見えた。しかも顔から落ちた包帯の殴られ腫れた目に「なんやその顔」と思わず吹き出す千之助。漆原も男役として戻って来て、改めて「鶴亀家庭劇」という劇団名で仕切りなおすことになった。だが「旗揚げ公演はこれでいく」と千之助が台本を一平に突きつけ、さっそく反目しあうのであった。

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【おちょやん・あらすじネタバレ】感想と千之助のモデル

今週のおちょやんは杉咲花のおそらくアドリブによる顔芸をひろうする一週間でしたが、杉咲花は若いとはいえあまりにも変顔を要求されるのが多すぎるのでは?と心配になった一週間でした。

千代が京都に行ってた4年の間にあまりにも道頓堀の景気が悪くなりすぎていて、
喜劇一座が頑張ることで道頓堀こ景気が盛り返すという、あまりにも一平への重圧が強くて気の毒だなぁと思いました。
そんな中「タコ入道」で千之助を笑かすことでなんとかなると動く千代は、まだ全体が見えていなくって、一平があまりに漢なのでカッコよかったです。

そして気になったのがほっしゃん。演じる千之助の苦悩。
これはお笑いをやっている人ならわかるのかもしれませんが、笑いと恐怖って表裏一体と言う人もいて、一平のケガをしている姿をシュールと思ったのでしょうか?わらけてしまって円満に戻るという展開でした。

千之助のモデルは曾我廼家十吾(そがのやじゅうご)さんという方です。
経歴としては
1891年、兵庫県神戸市に生まれ。地元でモノマネ好きの子供として有名だった。
1899年(8歳)大門亭大蝶一座に8歳の時代役で参加。これがきっかけで「大門亭文蝶」の名で役者の道を進むことになります。
1906年(15歳)曾我廼家十郎に再入門し「曾我廼家文福」と改名
1912年(21歳)気に入らないと劇団を飛び出して転々としたり一座を作ったりする
1924年(33歳)永井茶釜とのコンビで文福茶釜一座を結成し主に九州一体で活動
1925年(34歳)曾我廼家十郎が死去。ライバル曾我廼家五郎が喜劇会の長年にたつ
1927年(36歳)五郎が十郎の追善恐慌を主催。十吾は「曾我廼家五郎劇」に入りと「曾我廼家十五」改名
1928年(37歳)1年でやめる。五郎から名前を返せと言われ「十五」から「十吾」にする
1928年(37歳)松竹の支援で松竹家庭劇を設立。旗揚げに渋谷天外(成田凌のモデル)浪花千栄子(杉咲花のモデル)も参加
1946年(55歳)渋谷天外と浪花千栄子脱退
1948年(57歳)曾我廼家五郎が死去。「曾我廼家五郎劇」と「松竹家庭劇」を合併し「松竹新喜劇」を発足。座長は十吾だが、渋谷天外と浪花千栄子も参加し、座長の実験は天外がもった。
1964年(72歳) 天外との方向性の違いから退団。また「松竹家庭劇」を旗揚げしたが人気が出ず解散。解散後松竹新喜劇に何度かゲスト出演したが、体力的な問題で現役引退。
1974年4月7日(82歳)で死去。

笑いと芝居の方向性にこだわりのある人だったので、やはり周囲とどうしても衝突してしまう人だったようです。かなり波乱万丈な人生だったようですが、こうして名前が残っているのですから、やはり根強いファンはいたのでしょう。
また、同じ一座に天外と浪花千栄子がいるときに2人がつきあっているのを見抜き結婚を勧めたのは十吾です。
このエピソードはドラマで使われると面白そうですが、どうなのでしょうね?

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