【キャパとゲルダ】あらすじ・ネタバレ ・読書感想文書き方と例文
こちらでは
2020年「第66回 青少年読書感想文全国コンクール」
高校生の部の課題図書です。
『キャパとゲルダ』の
・「あらすじ・ネタバレ」
・読書感想文の書き方のコツ・ポイント
をご紹介いたします。
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『キャパとゲルダ』あらすじ・ネタバレ・読書感想文おすすめ度
『キャパとゲルダ』読書感想文・書き方例文
【2020年読書感想文】高校生の課題図書
うんちく・読書感想文の書き方の“こたえ”
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『キャパとゲルダ』あらすじ・ネタバレ・読書感想文おすすめ度
読みやすさ ★☆☆☆☆
感想文の書きやすさ ★☆☆☆☆
こんな人にオススメ
・写真が好き
・マスコミジャーナリスト志望
・世界史が好き、詳しい
・国際貢献事業に興味がある
・男女共同参画に興味がある
内容紹介
時代は第二次世界大戦の前夜、大国の代理戦争に民衆が巻き込まれたスペイン内戦。その不条理をレンズを通して見つめ、戦場に生きる人々の物語を写し取ったロバート・キャパとゲルダ・タローは、報道写真の世界に新しい風を吹き込んだ。
ふたりは、迫害を逃れて互いに亡命の身を支え合う恋人であり、自由と平等の理想実現に燃える同志であり、そして写真の創造性を競い合うライバルでもあった。熱い日々と突然襲いかかる悲劇。豊富な資料と取材で再現する。
ここではキャパとゲルダの人物像を紹介するあらすじ(ネタバレ)です。
プロローグ キャパの物語 1944年6月6日、ノルマンディー
ロバート・キャパはノルマンディー上陸作戦
Dデイに上陸するただ一人のカメラマンだった。
6月5日夜、何が待ち受けているかわかっていない
兵士たちと賭けトランプをしながら
「どの部隊と行動を共にするか?」
ナチスの砲弾の中に飛び込む第何波を撮影すべきか?
凍える水の中、恐怖に捕らわれながら
負傷した兵士たちの写真を撮った。
第一章 与えられた仕事 1934年、パリ
ユダヤ人のアンドレ・フリードマン
(のちのロバート・キャパ)は
パリで写真の女性モデルを探していた。
子供時代から反ユダヤ主義に統治され
ドイツでは左翼運動で秘密警察に逮捕される
アンドレはヒトラーが首相に指名され
ユダヤ人排斥が激しくなったため
避難できるパリに移民として逃げて来たのだ。
移民が仕事を得るのは厳しいが
カメラマンの仕事で食いつなぎ
モデルとなった女性の友人が同じ境遇の
ユダヤ人移民ゲルダ・タローだった。
女優のグレタ・ガルポのような美人で意志の強い
彼女は19歳の頃からドイツで反ナチス運動に参加。
1933年2週間逮捕された後、パリへ脱出してきた
女性だった。
第二章 恋に落ちて 1934年秋~1936年春
ゲルタはアンドレに写真の才能を感じ
コパン(友人)としてカメラマンらしくする
プロデュースしアンドレもゲルタを心の支えに
するうち2人は恋に落ち同棲をはじめた。
ゲルタは家庭的ではないが仕事ができ
自分の勤めるマリアンス・フォト通信社に
アンドレの写真を売った。
野心家で有名になりたがっていたゲルタに
アンドレは写真を教え、2人は渾然一体の関係となった。
さらには「改名」をしアンドレは
アメリカ人カメラマン「ロバート・キャパ」に
ゲルタ・ポポリエを「ゲルタ・タロー」とした。
反ユダヤ主義の気運で国籍や身元特定しにくくする
意味もあったとも言われたが改名してから
キャパの写真は政治情勢の緊迫に合せ
売れるようになっていく。
第三章 写真の中の物語 1936年春、パリ
5月1日のメーデーの2日後に選挙に世界中が
熱気を帯びていた。
世界恐慌による不景気から社会主義
共産主義、ファシストそれぞれが正しいと主張し
アナーキスト(無政府主義者)も登場。
若者たちはイデオロギーを求め、それぞれが
自分たちだけが世界の問題解決できるとし
その言動の背後に戦争の準備も進んでいた。
キャパ、タロー若者たちも真の敵ファシズム打倒を
うたい毎週末デモが行われた。
キャパは写真家の友人シムは勃発した
スペイン内戦を取材していたが
フランスでのスペインの人民戦線政府の
撮影依頼されデモ活動を撮影して
キャパの写真は人間臭く、リアルな現場を
切り取る力があった。
5月3日の選挙で人民戦線が勝利すると
大規模ストライキや国際連合の取材会場から
締め出されるスペイン人記者を撮影し
人々の声が封殺される姿として注目をあびた。
フランスの写真週刊誌『ヴュ』のヴォジェルは
キャパの報道写真を見そめスペイン内戦の取材に
キャパとゲルダをスペインに派遣した。
第四章 第一歩、革命 1936年8月
当時女性の戦場カメラマンなどいないが
左派のためにも2人は指名に燃えた。
バルセロナはアナーキズムが台頭し
職業身分差も男女の敬称もなく一律に「同志」となり
労働者階級が権力を握る興奮と高揚感に
あふれていた。
ゲルダも女性がズボンをはく姿に
女性開放を喜び自らもズボンで短髪にし
共和国軍の女性兵士の訓練写真を
ヴェ誌に採用された。
だが噂のわりに戦闘はなく浮かれた人々の
写真をばかりになったのは2人が到着した時期
内戦の殺戮や略奪がひと段落したタイミングで
女性も自分で自分の身を守り金持ちは労働者を装う
小康状態だったのだ。
コルドバに戦闘情報を聞き向かうも
小さな村から避難する人々の列の撮影だけ
成果のないままエスペポという村の近くで
共和国軍の戦闘訓練があり、ポーズを取ってもらい
それを撮影した写真は「くずれおちる兵士」として
史上もっとも有名な戦争写真となった。
第五章 若き義勇兵たち 「芸術は主義主張をあきらかにせよ」
6週間のスペイン滞在中に目撃したのは
一方的な苦戦と共和国側の屈辱的敗北だった。
スペイン内線は単なる地域紛争ではなく
背後の多くのヨーロッパ諸国の勢力が
関与している事実上の「代理」戦争だった。
ジャーナリストや写真家は自分たちの仕事が
民意を動かす政治的な武器という使命をおい
情報を得た多くの国の若者は、スペイン共和国軍兵士
看護師、医師としてスペインに集まりつつあった。
ソ連共産党(別名コミンテルン)スターリンは
スペイン共和国政府に支援を表明し義勇兵募集を
呼びかけ50もの国々から応募に渡航費用も支払われ
一晩でスペイン支援各種員会が結成された。
若者たちは自発的に大学や街中で義勇兵募集し
一月後には何千人もの若者がパリに集結した。
「いつの日か、貨幣が
優越性や人間の束縛の象徴ではなく
単なる交換のための媒介物にすぎず
誠実な労働の対価としか思われない世の中が来る」
参加する多くは、社会から辛い仕打ちを受けた者たちで
理想主義者だった。
移民や人種差別、女性差別など自分の痛みや苦しみ
理想をや夢をこの戦いにつぎ込んでいた。
戦場で自らの価値を証明し、理想世界の実現する。
彼らは自らを誇りに思い戦場に向かった。
第六章 マドリード攻防戦 1936年11月
キャパがパリでジリジリしている間
反乱軍がマドリードに到達した。
ヴェ誌は「くずれおちる兵士」を掲載したが
担当ヴォジェルをクビにしたので
今後仕事を依頼しないという。
一方のシムの写真は明るいものばかりだが
耳にする戦況報道はきびしいものばかり。
スペインで取材したいキャパはシムと
契約しているルガール誌に仕事の依頼をとりつけ
ゲルダは私用でイタリアにいたので
11月に一人マドリードへ向かった。
マドリードは空襲や砲撃が続き粉々で
外国人ジャーナリストが集まるホテルで
人たらしの要素があるキャパはソ連のために働く
ルカーチ将軍に戦場同行をたのみ、最初激怒さつつ
許可を得て同行を許された。
フランコ軍による攻撃はすさまじく
ゲリラ戦状態で砲弾が飛び交う戦場に
キャパは恐怖のあまり便を漏らしたが
崩壊したマドリードの人々の写真は
ルガール誌そしてドイツ、イギリスの雑誌にも
掲載され、キャパは有名人になった。
ゲルダは祝福する一方で自分はチャンスを逃した
と、不満が大きくなっていた。
次のチャンスは翌2月2人で行く取材だった。
第七章 キャパの功績「写真に動きを」
キャパの写真以降、雑誌編集者は写真に
動きを求め、キャパも編集者の求める
写真を撮ることができた。
「崩れ落ちる兵士」アメリカのグラフ誌『LIFE』
に転載され、現代のフォトジャーナリズムと
戦争写真の時代の幕開けとなった。
キャパ、ゲルダ、シムたちその創始者となった。
第八章 ともに廃墟で 1937年1月~2月
2月下旬のマラガは戦闘ピークが過ぎ
またしても2人は戦闘行動を撮りそこねたが
戦争で苦しむ市民たちを撮影し掲載された。
キャパが一足先に有名になったが2人は
お互いへの気づかいもあり恋人でありチームで
競うものでないと考えていた。
キャパとゲルダとシムはそれぞれの写真に
自分の名を付ける事を求めた訳でなかった。
3人とも写真で戦う兵士であり、亡命者で
戦場ジャーナリストとして生き延びるためには
分かち合うしかないとわかっていた。
キャパには新創刊の共産党系の新聞「ス・ソワール」
の正規の通信員契約の話が来たが、掲載の独占を
よしとせず契約商談にキャパ一人パリにもどり
ゲルダは残った。
第九章 ゲルダ、ひとり 1937年3月
キャパは仕事が安定してきた事でゲルダとの
将来を考えるようになった。
ゲルダはキャパの成功を喜ぶが
自分も名を残す成果を出すほうが重要で
キャパの事はコパンだと言い
言いよる男は撮影協力のために利用した。
イタリア、ムッソリーニ首相が4万の部隊を
スペインに送り、グアダラハラ市が戦場になった。
ゲルダも取材では悲惨な戦争体験に青ざめ震え
バレンシアでは共和国軍の女性兵の訓練取材した。
その頃になると共和国軍は脆弱だと明らかになり
共和国軍で新人民軍を作る事になり
ソ連指導者が共和国政府の農場掌握する求めに
応じる形となった。
ゲルダの写真もソ連のポスターのような勇ましく
共産党的なモノとなり、政治宣伝に近い写真となった。
それらはス・ソワール紙やルガール誌に掲載され
ゲルダの名が発表される初の仕事になった。
パリに戻ったキャパは、ス・ソワール紙と
良い条件を結び、スタジオも借りたがソワール紙は
マドリードに戻る仕事をくれなかった。
3月にゲルダが戻り、結婚を申し込んだが
内戦中なので結婚できないと断られた。
ゲルダは戦争しか頭になかった。
第十章 亀裂 1937年4月~5月
春になり2人はスペイン・マドリードに戻った。
ジャーナリストたちは機密保持のため
報道規制がひかれ記事の内容は統制された。
同じホテルにヘミングウェイがお洒落な愛人
ジャーナリストのマーサ・ゲルホーンを伴い
『スペインの大地』というドキュメント映画の
制作のために来た。
キャパの友人と映画監督が知り合いのつながりで
ヘミングウェイと知り合いになった。
男至上主義的思想の強いヘミングウェイは
ゲルダが気に入らなかった。
バスクに行くために2人は一度
パリに移動の書類を作りに戻った。
そのころゲルダも有名になりかけていたが
彼女の家族はドイツに残っていたため
ゲットーに移住させられていた。
そして行くはずのバスク・ゲルニカが
残虐な攻撃であまりに多数の死者が出て
町が破壊された。
パリのメーデーでゲルニカ大虐殺への
抗議活動を2人は撮影し、数日後2人は
スペインの別々の街へ出発した。
第十一章 勇気 1937年5月
ゲルニカの攻撃は鉱物資源が豊かな重要基地
だったためバスク地方占領のもくろみで狙われた
ものだった。
キャパは写真で抵抗しようと空襲警報が鳴り
人々が避難し終わっても大胆さがあるのに
誰からも愛される、小柄(163cm)で
ハンサムな青年だった。
キャパは
「対象物に近づくのは勇気の鎧をまとう一方で
心を開き、目の前のどんな物や人にも共感し
よりそうことである。
勇気ある「目覚ましい行動」と内に秘めた「感受性」
被写体となる人々に心から同情し自分の中の
優しさのバランスをとることなのだ。
対象に「近づく」ことは対象に共感し
悲惨で暴力的な光景の核心にあるものを見出す事だ。」
パリに戻ったキャパはス・ソワール紙の
制限に不自由を感じ契約を打ち切り
パリのタイム誌に有名になった自分の企画を
持ち込み念願のドキュメンタリー映画撮影の
仕事をとった。
ゲルダは臨時に共和国政府がおかれ
避難場所になったバレンシアに行き
死体の山と負傷者と家族を探す人々を撮影していた。
キャパと合流する予定だったので親交のある
ウォルター将軍に自分とキャパもセコビアに
同行する許可を得た。
第十二章 森の中の同志たち 1937年5月下旬~6月、セコビア戦線
セコビアの野営地に訪れた2人はよき相棒だった。
2人とも兵士たちにキャパは良き友人として
ゲルダは女性として好かれつつ最前線の
部隊の一員のよう振る舞った。
どちらかが兵士たちをリラックスさせ
もう一方の撮影をサポートし兵士たちの
自然な姿を撮影をした。
共和国軍政府は劣勢に傾きつつあったが
ゲルダは自身を写真家としてだけじゃなく
「自分は男性部隊にとっての勇気の源
幸運のお守り」と思い始めていた。
6月下旬にはコルドバ戦線でも兵士たちは
魅力的なゲルダに夢中になり
本人も注目を浴びるのを楽しんだ。
2人は前線撮影前に、兵士たちを演出し
戦闘場面を演じさせドキュメンタリー映画と
写真を撮影した。
当時、報道と政治宣伝の境界はあいまいだったのだ。
夜明け前の本物の全線でも兵士たちはゲルダを
意識し髭を剃って身ぎれいにしていた。
“自分がいれば兵士の士気を高められる”
ゲルダは一線を越える危ない橋を渡り始めた。
第十三章 しゃべって、踊って 1937年7月
スペイン内戦から1年近く経過し、バレンシアで
様々な国の有名作家による国際作家会議が
共和国政府支持で意見はまとまるが
あきらかにソ連の魔の手が伸びているのを
感じ混沌としていた。
キャパはその写真を売るためパリに戻り
残るゲルダはテッド・アランにまかせた。
7月7日マドリードでの作家会議撮影中に
3人の兵士がファシスト軍から村を奪還した
報告に現れ、ゲルダは急ぎブルネテの戦場に
向かった。
奪還した街の様子を撮影したゲルダは
共和国軍大勝利のスクープをものにした。
パリでは万国博覧会が開催中でドイツ館
ソ連館もあり2国の攻撃的で野心的な
敵対心を感じさせた。
スペイン館は「なにもせずにいることで
何を破壊しているかわかるでしょう?
守らなければならないものがなにか
わかるでしょう?」と言うかのようで
ピカソの無差別爆撃の地「ゲルニカ」の
追悼壁画も納められ、戦争やファシズムに
抗議する普及のシンボルになった。
その頃のキャパの興味はスペインから離れ
中国と戦争する日本に向きゲルダと別の
国際事件を取材したいと願っていた。
一方のゲルダはスクープをものにしたことで
なおさら戦場から離れられなくなっていた。
この時の作品は力強く、兵士たちと戦闘地域に入り
指揮官も彼女がいると兵士が戦況を悪くないと
思う事にありがたさを感じていた。
戦闘が膠着しいったんパリに戻ったゲルダは
自分の写真の雑誌が売店に並び
キャパ、ゲルダ、シムそろった成功を実感した。
7月14日のフランス革命記念日も世間は
スペイン状況への抗議の声があがり
2人の関係は良好で自信に満ち
ユーゴスラヴィアの家族がパレスチナ
入国ビザを申請した事に喜んでいた。
絶好調のゲルダは中国に行く前に
ブルネテでの仕事を終わらせたいと
再びスペインに行った。
第十四章 あと一日、もう一枚だけ 1937年7月後半
7月半ばゲルダはマドリードに戻った。
膠着状態は終わらず、ブルネテの戦いは失敗と
考えも出てきた。
だがゲルダは記事をモノにするのをあきらめず
心からこの戦争の大義を信じていた。
ゲルダの撮影手法はキャパのように
構図の意識や細かい気配りもかなぐり捨て
危うさと緊張感に満ちたモノになっていた。
パリではライフ誌がキャパとゲルダの
中国派遣を了承し、電報でゲルダに伝えた。
ゲルダもあと1日だけここで仕事しようと思った。
7月25日ブルネテでの最前線での撮影に
アランは気が進まなかった。
ジャーナリストの戦闘地域立ち入りを
禁止され緊迫した状況にアドレナリンが出て
興奮状態のゲルダは飛び出し撮らずにいられなかった。
敵の空襲が始まり、アランはゲルダを壕に引き込み
爆弾がさく裂しても撮影を続け、兵士が吹き飛ばされ
ようやく終焉した。
村の救護所へ将軍専用車で向かう途中ドイツ軍機が
あらわれそこへ味方の戦車が曲がりながら
接近し2人が乗っている車を弾き飛ばした。
アランは溝の中に落ち、ゲルダは胴を戦車の
キャタピラに轢かれた。
手術は手のほどこしようがなく、麻酔もない中
「だれか、わたしのカメラをもってきてくれた?」と
繰り返し、モルヒネを投与されまもなく死を迎えた。
7月27日ゲルダはパリに帰らず電報で連絡もない。
キャパは歯医者でフランス共和党機関紙「ユニマテ」を
待合室で読むとそこにゲルダ死亡の記事が
掲載されていて、その場で崩れ落ちた。
第十五章 殉教者誕生 1937年7月下旬~8月
パリでゲルダの棺は100人あまりの人が出迎え
キャパは支えてもらえなければ歩けず
ゲルダの弟はキャパにおまえのせいだとののしり殴った。
ゲルダの葬儀は盛大でジャンヌ・ダルク然に祭あげられ
大義に殉じたことにされ伝説が大きくなった。
キャパは罪の意識にさいなまれて荒れて飲んだくれ
写真を止めるとか僕がいれば死なせなかったと嘆いた。
「わたしがまだ生きているのは不公平な気がする」
ブルネテでの撮影をしたある晩、ゲルダはそう漏らしたという。
第十六章 逃避行 1937年8月~1939年10月
スペイン内戦はヒトラーやムッソリーニの
援護を受ける反乱軍に勝てず共和国軍は撤退した。
キャパは戦争を冷めた目で見るようになり
戦闘の取材はするが、プライベートは
だらしなくなった。
アランは「僕は彼女を愛してた!」と叫び
「誰だってゲルダを愛さずにいられないさ」と
キャパは笑い友情を深めた。
中国ではゲルダの写真を「自分の妻」とふれまわり
たくさん恋はするが、深い絆は結ばず常に世界を
飛び回った。
1938年9月ナチスドイツがオーストリアに侵攻併合し
イギリス、フランスはヒトラー、ムッソリーニと
ミュンヘン協定でチェコスロバキアの一部を
ドイツに与え宥和をはかった。
スペインでは共和国首相が義勇兵を帰国させ
弱体化が進み、反乱軍を支援する国々に
もはや抵抗できなかった。
戦況悪化するごとにキャパの報道写真家としての
名誉は確かなものになりアメリカ、イギリスと
他方から賞賛された。
どの記事も目を見張るような戦争報道だったが
パリに戻ったキャパは体調を崩し母親に
「とても具合が悪く、しばらくは衰弱しきっていた」
と手紙を書いた。
スペインは南半分を反乱軍が占領し
百万人もの避難民がでた。
キャパはもうそれ以上スペインでの
撮影に耐えられなくなった。
1939年4月1日までにスペイン内戦は終了し
フランコ軍が勝利した。
ヘミングウェイは1939年『誰がために鐘は鳴る』
を出版。
スペインで見た、希望や英雄的行為、裏切り
ソ連による冷徹な工作がもりこまれ
万人の残酷さをえぐる陰鬱な作品に不買運動が
わき起こった。
1939年8月にはソ連とナチスドイツが
不可侵条約を署名し同盟国となった。
ソ連のおんどで義勇団となった左派の人々には
最悪の裏切り行為でありフランスも神経をとがらせた。
翌9月ナチスドイツはポーランドに侵攻
2日後、イギリスとフランスはドイツに宣戦布告した。
フランス政府はドイツからの移民や共産主義者を
検挙収監し始め、キャパの写真も左翼出版物で
特集される写真家なだけに危険だった。
チリ領事のパブロの口添えでアメリカのビザが取れ
ぎりぎりでアメリカ行きの船に乗った。
キャパのネガフィルムは行方不明になった。
第十七章「今世紀で最も重要な記事」1944年6月6日
キャパはDデイで輸送艦の甲板にもどり
死傷者の写真を撮ると疲れ切り倒れてしまった。。
イギリスに帰還すると記者にとりかこまれたが
フィルムを将校にあずけ、ノルマンディーに戻る
次の船に乗船した。
現像できたのは10枚のみだがすばらしいものだった。
1947年第二次世界大戦終了から2年
キャパほか数名でフォトエージェンシー設立
記事も契約も企画もカメラマンが
主体的にでき、所有権・著作権も写真家のもので
この組織を「マグナム」と命名した。
それからもキャパは世界中をまわるハンサムな英雄で
イングリット・バーグマンとデートし
アメリカ人作家ジョン・スタインベックと
紀行文を出し、旅先でドラム缶でポーカーをした。
1953年頃
高額報酬なのにいつも文無しで、華やかだが
浮ついた仕事に刺激はなく酒浸りとなり
戦場に戻りたい、写真を止めたい
自分が40歳だなんて信じられない
もう一度戦争に行かなきゃならないなら自殺する
など…戦争の代償が追い付いた。
翌年、日本での長期取材中にライフ誌から
インドシナ戦争の取材を受け5月には
北ベトナムに向かいヴェトミンだらけの中
ノロノロ進むジープから飛び降り兵士たちを撮影。
もどる時、小川の堤防に上った際に地雷を踏み
片足が吹き飛び胸をえぐられ死亡した。
第十八章 なにが残ったのか?
1956年シムもシナイ半島で、味方誤射により
死亡した。
キャパとゲルダとシムはスペインで敗北を味わい
取材中に命を落とした。
写真家たちは人々の感情や思想を動かせなかったが
マグナムはその後も存続し
地球的規模の活躍で「世界最高の写真家集団」
として現代でもその名声は知られている
第十九章 その目で見よ 1995年、メキシコシティ
スペイン・メキシコ美術専攻の
大学教授ジェラルド・R・グリーンのもとに
メキシコのベンジャミン・ターヴァーが
自分が所有するネガフイルムはキャパのものでは
ないかと近づいてきた。
キャパの弟コーネル・キャパは数十年前から
それをさがし広告を打ったり自分も名前を
キャパにし、自らライフのカメラマンにまでなっていた。
メキシコの気候はネガの保存状態を良く
完璧に近い状態で
2007年3つの箱に入った4500枚分のネガフィルムは
「メイキシカン・スーツケース」と呼ばれNYに届けられた。
コーネルがなくなる数か月前であった。
スペイン内戦での理想は実現しなかった
だがあの時代ジャーナリストたちはみな
人生でもっとも理想に燃えた時期だと感じていた。
自由を味わいつまらない日常生活からぬけでて
より平等な社会の青写真を垣間見たのだ。
スペイン内戦は第二次世界大戦の前奏曲となった。
2人の写真は政治宣伝の色合いや傾向もあり
あきらかに党派色の強いもので
1938年『生み出される死』は政治パンフレットの
ようでもあった。
だが左派勢力党内でも闘争や分裂が起きることに
反対し、スペイン内戦後にキャパは「味方」の醜さを
表現する写真
赤ん坊を抱いたフランス人女性がドイツ兵と関係を持ち
断髪、罵倒されている様子を撮った。
アメリカ海外記者クラブは「特筆すべき勇気と冒険心を
必要とする、もっとも優れた国際写真報道」
ロバート・キャパ賞を贈っている。
キャパとゲルダは20世紀前半の壊滅的な変化
大惨事や悲劇を理解するための視覚的言語を与えてくれた。
『キャパとゲルダ』読書感想文・書き方例文
・高校生の部 本文2,000字以内
(作文用紙400字×5枚)
読書感想文コンクールの入賞した子は
原稿用紙5枚2000字きっちりに書きます。
・この本を選んだきっかけ
・簡単なあらすじ
・感想、疑問点など
(特に面白かったところ、感情が動いたところ)
・自分の意見、似たような経験談
・本を読んでの意見
(本を読んで学んだこと、自分の意見、今後の生活に生かしていく。など)
あらすじは簡単でもいいですが
・自分がどう感じたか?
・本を読んで何を感じ、今後にどう生かすか?
は重要です。
また「似たような経験」の自己開示がある感想文は
なぜか評価が高いです。
【キャパとゲルダ 感想文例文2082文字】
戦場カメラマンという職業で最も有名な人が
ロバート・キャパでしょう。
とくに「くずれおちる兵士」は戦死が銃撃された
衝撃の一瞬で「戦場とはこういうものなのか」
とショッキンでリアルな描写に驚く写真です。
ところがこれは暇な時間の兵士に
ポーズをとらせた“やらせ写真”だと知り
そのあざとさにがっかりしたものです。
それでも報道写真家の中で彼の存在は不滅の存在で
実は恋人と共に戦場で共作に励んでいたという
話に驚いたので選んだ1冊です。
第二次世界大戦の代理戦争と言われた
スペイン内戦の現場で世界にリアルな
戦争の報道写真を提供したのが
キャパとゲルダのカップルです。
ユダヤ人として生まれた2人はそれぞれが
当時政権を握るファシズムによる弾圧を
受けながら育ち、青春期には左翼活動で過ごします。
同じ移民としてフランスで出会った2人は
恋に落ち、兵士のつもりで戦場カメラマンとして
社会に現状を伝えていきます。
キャパが一定の知名度を得た頃から
ゲルダも自分の成功を夢見て、戦場での撮影に
制御がきかずのめり込み、事故死します。
キャパはそれ以降、戦争を冷めた目で見つつも
世界的戦場カメラマンとしての名声は上がり
戦争の後遺症のような心理状態になりますが
40歳で行ったベトナム戦争の取材中に
地雷を踏んで死亡します。
スペイン内戦ではファシスト側の反乱軍が
勝利し、第二次世界大戦が勃発。
戦場の写真は無力だったのか?を考えさせられる
作品です。
本書を通して感じたことはキャパとゲルダ
そして当時の若者たちの政治的イデオロギーを
求める姿勢に正直全員が正気ではなかったのでは?
と思いました。
その思想はヒトラー、ムッソリーニなど
ファシスト側の方がよりヒドイとは
思うのですが、皆が“理想社会”を求める
根源が差別、貧困などへのルサンチマンから
始まっていることです。
人は身の安全と生きていける保障がないと
怒りが増殖します。
追い詰められると
「この現状があるのは、なにかが悪いからだ」
と犯人捜しを初め攻撃し世は混沌とします。
2020年初めからの新型コロナウィルスにより
世界経済の落ち込みは当時の若者たち同様に
怒りをはらんでいる人々もいます。
ですがスペイン内戦から第二次世界大戦の
戦乱の時代と現代とでは何が違うのかというと
人間は学習したという事です。
キャパとゲルダの戦場の写真は左派からの
プロパガンダ宣伝材料として利用され
当初、演出された写真で人民の
意識操作をもくろみました。
当時の人々は盲目的にその報道写真を信じ
熱狂しキャパとゲルダは時の人になりましたが
それ以上にナチスドイツのヒトラーの
ように人心掌握力のほうが勝る結果に
なったと言えます。
もしゲルダが無理せずに死なずに
キャパと2人中国での取材で
ちがう写真、映像から世界を掌握
できたかもしれません。
キャパとゲルダはツインソウルのように
生まれ育った境遇も仕事への姿勢も似ていて
恋人よりもビジネスパートナーの関係性を
強く深めます。
特にゲルダは当時の若者の代表のように
熱狂的な左翼運動家で戦場では
女性性を利用して兵士たちを翻弄して
仕事をし、チヤホヤされるのを喜ぶかと思えば
フェミニストとしてズボンと短髪を
取り入れ、戦場でのアドレナリン放出に
前後不覚に銃弾のなか飛び出す。
まるで思春期を迎えた情動を押さえられない
若い猫が無謀に道路に飛び出し車にひかれる様を
想像させました。
個人的には彼女のような女性は
好きではありません。
どうして自己中心的なのだろう?とも
思います。
ですがキャパは彼女の命を守れなかった事に
後悔しても、カメラマンにした事は
後悔していなかったようです。
彼女の死後出版した『生み出される死』は
プロパガンダ写真集であっても
彼女が生きた証であり彼女を否定しない為に
出されたのだと思います。
彼らは当時の若者たち同様にイデオロギー改革の
熱に浮かされていたように思います。
和平より支配で世界の均衡を保とうと
したのは、奪うことのメリットを重視した
人類の未成熟さが招いたものだと思います。
私はキャパはゲルダが死んだ時に
そのことに気づいたのだろうと思います。
その後の彼が戦争を冷めた目で見るようになり
自堕落な生活をしながらも戦場カメラマンの
仕事は辞めずアンビバレンスな言動と行動だったのは
PTSDだったのだろうと思いますし
戦争を作った一員の負い目もあったように
思います。
日本人にとって忘れてはならない
太平洋戦争終戦の1945年から戦後75年たちますが
世界はその後も各地で紛争がやむ事はありません。
そしてこれからの戦争はキャパとゲルダが
銃弾の雨の中を走るようなモノではなく
ITによる情報操作や気づかないうちに
潜入操作され侵略されるような、命は奪わずとも
人権や利権を奪う戦争になり、すでに
行われているのだとも感じます。
現代のプロパガンダはより巧妙です。
時に明るさ楽しさ、お得感を武器に
取り込もうとしてくるのかもしれません。
私たちがキャパとゲルダから学ぶ事は
戦争を冷めた目で見ることです。
1つのイデオロギーを鵜呑みにするのではなく
様々な意見から自己責任で平和を選ぶことです。
キャパとゲルダの功績を生かすことは
人類の行動そして平和な暮らしが維持できるよう
責任を持つ事だと思います。
【2020年読書感想文】高校生の課題図書
「フラミンゴボーイ」あらすじと読書感想文オススメ度
読みやすさ ★☆☆☆☆
感想文の書きやすさ ☆☆☆☆☆
こんな人にオススメ
・ファンタジー好き
・動物が好き
・読書なれしている
・戦争に対して意見がある
作品概要
歴史のひとこまを力強く描く感動作品一人のイギリス青年が、一枚のゴッホの絵をきっかけに
訪れた南仏カマルグで、原因不明の高熱におそわれ動けなくなる。
辺りにはフラミンゴが無数飛んでいた。
気を失った後、助けられた家で不思議な話を
聞くことになる。第2次世界大戦の末期
南仏の田舎町カマルグにもナチスはやってきた。
そこで何が起きたのか………?
それは、フラミンゴと話ができる不思議な力を持つ少年と
ロマの少女の物語だった。
ロマ・・・「ジプシー」が差別的な呼び方だとする考えでの呼称の一つ。
「廉太郎ノオト」あらすじと読書感想文オススメ度
読みやすさ ★☆☆☆☆
感想文の書きやすさ ★★☆☆☆
こんな人にオススメ
・音楽が好き、詳しい
・伝記モノが好き
・読書好き
内容紹介
廉太郎の頭のなかには、いつも鳴り響いている音があった――最愛の姉の死、厳格な父との対立、東京音楽学校での厳しい競争、孤高の天才少女との出会い、旋律を奏でることをためらう右手の秘密。
若き音楽家・瀧廉太郎は、恩師や友人に支えられながら、数々の試練を乗り越え、作曲家としての才能を開花させていく。そして、新しい時代の音楽を夢みてドイツ・ライプツィヒへと旅立つが……。「西洋音楽不毛の地」に種を植えるべく短い命を燃やした一人の天才の軌跡を描き出す。
2020年春のNHK朝ドラ“エール”も
古関裕而(1909年〈明治42年〉8月11日~1989年〈平成元年〉)
と妻・金子をモデルに作曲家とその妻の生涯の
フィクション作品です。
滝廉太郎(1879年(明治12年)8月24日~1903年(明治36年))は
志半ばに若くして亡くなりますが、当時
日本で唯一の東京音楽学校に入学し主席で卒業した
大変なエリートです。
読書感想文の書き方の“こたえ”
過去の読書感想文課題図書なら、感想文を書いた人も沢山います。
入賞作は審査員が気に入る読書感想文は
先生方が「良い」「書いて欲しい」と思うこたえとは
生徒が真剣に本のテーマを考えている…
「とても正しい優等生な意見」です。
時に本の内容と似たような
「自分の恥ずかしい失敗談」などの
自己開示もあるとより一層
「素直でよろしい」とされます。
そして本を読んだ感想と
自分の経験を照らし合わせて
よりよい品行方正な考え方を身に着けたか?
それが「読書したうえでの学習効果」にあたります。
自分なりの意見があっても反抗的だったり
「いいと思います」「すごいと思います」などの
単純な感想ではいい点数をつけてくれません。
何をいいと思うのか?
前年の課題図書の読書感想文全国コンクールの
入賞作品を参考にすると書き方のコツが身につきます。