「牧野富太郎【日本植物学の父】」あらすじネタバレ・読書感想文の書き方のコツポイント


「牧野富太郎【日本植物学の父】内容情報(出版社より)
子どもたちに身近なテーマですぐれた研究を行った科学者を紹介する児童書伝記シリーズ。
「日本植物学の父」と言われる牧野富太郎の研究にかける情熱と生き方、支えたまわりの人物などを紹介します。
植物のつくりや分類のしくみなど、科学的資料も満載です。

こちらでは
2021年「第67回 青少年読書感想文全国コンクール」
中学生の課題図書の「あらすじ・ネタバレ」
読書感想文の書き方のコツ・ポイント
をご紹介いたします。

牧野富太郎氏をモデルにした朝ドラ誘致を生地・高知県高岡郡佐川越知町で30年にわたり活動し、実現化することとなりました。

朝ドラ「らんまん」モデル牧野富太郎はどんな人?経歴と生涯・気になる重要キャスト

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「牧野富太郎【日本植物学の父】」あらすじ・ネタバレ 
「牧野富太郎【日本植物学の父】」読書感想文の書き方のコツポイント 
うんちく・読書感想文の書き方は経験者から学ぶ!

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「牧野富太郎【日本植物学の父】」あらすじ・ネタバレ 

読みやすさ ★★☆☆☆
感想文の書きやすさ ★★☆☆☆

こんな子におすすめ
・大好きな趣味ややりたいことがある
・将来仕事や夢で成功したい
・自然や植物に興味がある

「牧野富太郎【日本植物学の父】」あらすじ・ネタバレ

牧野富太郎は「日本植物学の父」と呼ばれる人です。植物採集には蝶ネクタイに丸眼鏡の格好で行くのは「植物への尊敬のキモチ」のあらわれで植物が好きすぎて「わたしは草木の精かもしれん」と言い出すほどの「植物愛」があります。「絵を書く才能」も武器になり、小学2年で中退しながらも東大に出入りして研究しました。日本全国の野山を歩き40万点の標本を分類し、1500種類の植物に名前を付け『牧野日本植物図鑑』を作りました。ですが研究のために家業を潰し妻子は借金に追われる貧乏暮らし。それでも「この学問だけははなさかった」のです。富太郎の94年の人生はどんなものだったのでしょうか?

第1章 植物学に出会う

牧野富太郎は1862年(文久2年)大きな商家に生まれます。
両親が早世し唯一の身内の祖母も商売が多忙でしたが、富太郎は好きな草木を見ていれば満足でした。寺子屋や名教館(めいこうかん)という塾で儒学、英語、物理、地理、自然を学びます。ですが学制改革で13歳から名教館は佐川小学校に代わり、すでに読み書きはできるので小学校は2年でやめてしまいます。
それからはまた野山に出向き草木の写生や愛読書「博物図」を読みふけり、高価な植学を薬草シリーズ本を祖母にねだったり植物を科学する『植学啓原』という本に惹かれ、17歳で高知師範学校の教師で西洋植物学の翻訳者の永沼小一郎から植物「分類学」を知り「まだ名前のない植物を見つけて名前をつけたい」と夢を持ちます。

第2章 初めての東京

19歳富太郎は 第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に 2人を伴い当時は海外旅行なみの上京をします。
図鑑「植物図」を作った念願の“植物局”に行き田中芳男と小野職愨と知り合います。彼らは富太郎の学習意欲をホンモノとみなし、同じ志を持つ研究者として情報を送ると言ってくれたり、東大が日本一植物学が世界に通じている学問の場と知り、自分の世界の狭さを知りますが「いつか必ず日本中の植物を明らかにする」と誓いをたてます。

緒鞭一提(しゃべんいったつ)結網子
1.忍耐を要す(何をするにも耐え忍んで続ける)  
2.精密を要す(いい加減に済ませず、細かいところまできちんとする)
3.草木の博覧を要す(沢山の植物を観察しなければいけない)
4.書籍の博覧を要す(できる限り沢山の書籍を読み、研究に生かす)
5.植学に関係する学科はみな学ぶを要す(物理や化学、動物学など関係分野も学ぶ) 
6.洋書を講ずるを要す(西洋の進んだ学問を身に着けること)
7.当に画図を引くを学ぶべし(研究発表に役立つような絵や図の技術を学ぶこと) 
8.宜しく師を要すべし(年齢や立場の上下にこだわらず、教えを乞うて学ぶこと) 
9.吝財者は植学者たるを得ず(植物の研究に必要な資金をおしんではいけない)
10.践渉の労をいとうなかれ(ほうぼうの山野に足を運ぶことを嫌がってはいけない)
11.植物園を有するを要す(植物を植えて観察するために施設を持つこと)
12.ひろく交を同志に結ぶべし(知識を与え合う仲間を持つこと)
13.邇言を察するを要す
 (専門家でなくても様々な人のチョットした言葉を記録誌研究に生かす)
14.書を家とせずして、友とすべし
 (書物に書かれていることを鵜呑みにせず誤りがある時は正し、本と友のような関りを持つこと)
15.造物主あるを信ずるなかれ
 (真理を追求するさまたげになるので、万物を想像した者の存在を信じてはいけない)

 
20歳で作ったこの約束を富太郎は生涯やり通します。

第3章 青長屋とたぬきの巣

どうしても植物学をやりたいと祖母を説得し、泣く泣く許され明治17年(1884年)22歳の時に再び上京します。
学歴のない富太郎に東大で学ぶ資格はないのですが、東京帝国大学、理学部・植物学教室の矢田部良吉教授にこれまで作成した「土佐植物目録」を持参し精度の高さに同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可されます。
「日本のすべての植物を明らかにしたい」研究目標は植物学の黎明期である日本では途方もないモノでした。同教室の各種の植物研究生たちと仲良くなり「たぬきの巣」と呼ばれる資料であふれた富太郎の下宿で議論や研究し、切磋琢磨し合いました。また25歳で「植物学を世界レベルに上げたい」と同教室の大久保三郎、田中・染谷徳五郎らと共同で『植物学雑誌』を創刊します。

第4章 若き植物学者

同年、唯一の肉親で理解者の祖母が死去します。
祖母の想いに報いるため、より研究に前のめりになり、日本の植物も研究し東アジア植物研究の第一人者・ロシアのマキシモヴィッチに名前の分からない植物の標本と図を送り判断を頼みました。すると富太郎の図を絶賛する返事が届き、新種と認められたものに「マキノが発見した物」という意味の(セダム)(マキノイ)という学名を付けたと返事がきました。「日本の植物には、日本人植物学者が研究して学名を付け世界に発表すべき…日本の植物誌が必要だ」と「植物研究もデータベースが必要」とこの大変で地味な仕事は自分しかいないと確信します。
ですが学位のない富太郎の本を大学や出版社は出版しないので「自費でやる」と自ら印刷所で夜間に印刷技術を学びます。しかもその頃、富太郎は菓子屋の娘・小沢壽衛(すえ)を好きになり、印刷所の社長に口をきいてもらい同棲を始めます。
26歳11月に『日本植物志図篇』1冊目が完成。その精密さや学問書としての利便性の高さに仲間は大絶賛します。27歳で新種の植物を発見『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種の「ヤマトグサ」に学名をつけまし。
翌年28歳で東京小岩でヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集し、これは世界的に点々と隔離分布する「ムジナモ」の日本での新発見をします。そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになります。

第5章 ロシアへの思い


小澤壽衛子とも結婚し、長女園子も生まれ2年ほどは順調で幸せな日々でした。ですが同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられます。
矢田部教授的には自ら足を使って集めた標本や国からの予算を集めて作った資料で「いよいよ論文を!」と思っていた矢先に、何者でもない富太郎がそれらを利用し、良いとこ取りで、自費とはいえ図鑑出版や世界に論文を出したとみなされたのです。
失意の富太郎はマキシモヴィッチを頼り、ロシアで研究を続けようと考えますが、マキシモヴィッチが死去したことにより、研究の退路が断たれ絶望します。友人たちのはげましもあり、『日本植物志図篇』も次々と6冊まで出版しました。ですが経済的に限界が来ていました。

第6章 びんぼうとの戦い

祖母亡きあと、番頭に家業を任せ多額の出版費用や生活費を送金させていましたが、すでに商売は先細りの状態で限界と告げられます。郷里に帰りますが、富太郎も自責から「自分は家業に関わるべきでない」と判断し店を整理します。地元にしばらくいましたがそれでも働かず、地元の植物の研究や、女子校での音楽指導などしていたところ、東大の矢田部教授が退任し友人松村が主任教授となったので現・東大農学部に助手の口を作ったと誘いを受けます。ですが「人に使われるのは…」とまごまごしていたら、長女・園子が風邪で死んだので急ぎ東京に帰り、その後大学で働くこととなります。
研究の成果をどんどん上げ、遠慮なく論文を出し、助手なのに教授連に間違いを指摘するので松村教授との関係も変わりました。貧乏も相変わらずなので同郷で法科・土方教授が総長にかけあい大学出版として『大日本植物誌』作成の仕事を作ってくれました。
15万の給料で多子多産では生活費は足りません。しかも必要な書籍は高価でも全て購入するので多額の借金をつくります。
家財道具の差し押さえや、家賃が払えず立ち退きで引っ越しを繰り返したり、同郷の出世頭・三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎の弟・弥之助い借金を肩代わりも焼け石に水。さらに48歳の時に富太郎をうとましく思われていた人たちによりクビになります。でも味方のおかげで2年後に講師として30円まで給料も上がり復職できますが、54歳ごろ借金でどうにもならないので「海外に標本を売るしかない」となると新聞記者が「国家的に価値の高い文化資産を海外流出させるのは国の恥」と書きます。
富太郎は植物博覧会や雑誌寄稿をして全国に「牧野ファン」がいて20歳の京都帝国大学生の池長孟がタニマチになり、標本を買い取り池長会館に所蔵し「研究費」の補助もしました。

第7章 植物学を、人びとに

明治42年47歳の時に「植物同好会」を作ります。月1度の植物採集会で異業種の人々と知り合い、富太郎ファンも増えていきました。東大での講座も人気で大学院生、医学部生、職員まで参加しました。
身なりはボロボロ借金だらけですがウナギやすき焼きを学生におごったりして、全国に研究家のネットワークができていきました。「アマチュアの研究者たちが気軽に報告を寄せられる本が必要だ」と『植物研究雑誌』を創刊したものの資金不足で3号で休刊します。するとまた池長が、次に成城学園高騰女子高の園長・中村春二が援助しますが関東大震災で刷り上がった本は全焼し、しかも中村も急死します。すると津村順天堂(現、ツムラ)の協力により『植物研究雑誌として』出版されることとなり、これは現在も刊行されてい続けています。

第8章 壽衛のおくりもの

借金暮らしを支えていたのは妻の壽衛は、貧乏生活を改善するため料理屋を開業します。当時は水商売として聞こえの良くない職業でしたので家族から別居し東大にバレないように商売を始めます。
それなりに繁盛し、貧乏脱却ののきざしが見えたころ関東大震災が起き、富太郎の家は無事でしたが「火災で資料が燃えたらどうしよう、安全な保管場所がほしい」と壽衛は考えるようになり、料亭の存在が東大にバレて富太郎が呼びだされたり、景気も下降してきたので店をやめて売ることにします。その金で富太郎64歳、壽衛は54歳の時「安全な田舎に家を建てよう」と武蔵野の大泉に富太郎が研究や資料の保持を考え、広めの家を建てます。ところが壽衛は体調を崩すようになり、翌年亡くなってしまいます。

第9章 学問のみのり

壽衛亡き後も研究に打ち込み、全国を飛び回る富太郎。
子供たちは送られてきた採集植物をカビさせたらドヤされるので、乾燥保存に四苦八苦し必死でした。友人たちは富太郎の昇給のために「後の続く者のために学位を取れ」とすすめ富太郎は「理学博士」になり12円給料は上がりました。お金に無頓着な富太郎は東大での研究に価値あれど、肩書や権力や大学社会のしくみはなじめず、常に理解者と反目者が常にいる状態でしたが、定年がないので退職がない利点はありました。1934年(昭和9年)「牧野植物学全集」を刊行し、このシリーズで朝日文化賞を取りました。
1939年(昭和14年)77歳で東大はやめて翌年には研究の集大成の「牧野日本植物図鑑」という最大のヒット作を出版します。
出もどりの娘・鶴代がアシスタントとなり、満州にサクラ調査に同行したり、池長植物研究所から返却された標本の保管に、書道家の安達潮花が自宅前に倉庫を作ってくれるなど、研究の下支えは必ず誰かがしてくれました。
太平洋戦争の空襲が自宅前にも落ちてきましたが、疎開しようと言う鶴代のいう事はきかず、東大の韮崎の分室に最重要なモノを保管できたのでギリギリで疎開しました。食料不足で富太郎はやせ細りましたが自宅も資料も無事だったのですぐ元気になりました。

第10章 草木を愛する心

85歳になった富太郎にはひ孫もいましたが、元気に仕事を続け世界中から植物学の研究者が来るようになりました。小学生時代から通い詰めて後に植物学者をへて牧野植物園の園長となった小山鐡夫や宮内庁から陛下のご進講をたまわり「世界の植物界い大切な人なので、体をいたわって下さい」とねぎらいの言葉をいただきました。
1949年(昭和24年)大腸カタルで一旦危篤状態となるも回復し、1950年(昭和25年)にはノーベル賞の湯川秀樹や日本画家の横山大観、谷崎潤一郎とならび、国の文化功労者に選ばれます。
また未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を国が生理保存しようおいうことになり「牧野博士標本保存委員会」が組織します。1953年(昭和28年)91歳で東京都名誉都民になりますが、翌年には風邪をこじらせ寝込むようになり仕事ができなくなりました。
1956年(昭和31年)富太郎重篤説が流れ、全国からお見舞いの手紙が届き、ふるさと高知では「牧野植物園」が設立されることが決まります。植物園を作ることが長年の夢でしたが残念ながら完成を見ることなく翌年1957年(昭和32年)94歳で富太郎は死去します。

富太郎は晩年多くの文章を書いていました
「…草木とは何の宿縁があったものか知りませんが、私はこの草木が好きなことが、私の一生を通じてとても幸福であるとかたく信じています」


【解 説】
標本はなぜ、大切?
・植物の特徴を示す証拠となるから
植物に学名をつけて発表する時、標本が証拠として必要になります。また学名の証拠となる標本はただ1つとされ永久保存がきめられています。同じ植物でも季節、場所により違いがあり、その比較のためにも必要です。
・時がたっても調べられる
標本は乾燥していますが、必要な部分をお湯でふやかせば解剖して調査でき、DNAも採取できます
・標本はタイムカプセル
絶滅した植物もあるので、見てたしかめることができます。

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「牧野富太郎【日本植物学の父】」読書感想文の書き方のコツポイント

感想文(2000字)の参考例
「牧野富太郎」読書感想文の書き方【例文あり】
 


【読書感想文の応募要項】
・中学生の部 本文 2000字以内
(作文用紙400字×5枚)

 
字数が足りない場合は、以下のサイトの「文字数が足らない場合の対策」の部分が大変参考になります。
読書感想文の書き方 構成とコツ【中学生・高校生】コピペOK
 
 

青少年読書感想文全国コンクール審査基準
    ○ 応募規定にあっているか
    ○ 発達段階に応じた適切な本を選んでいるか
    ○ 読書のよろこび、楽しみが感じとれるか
    ○ 広い視野から作品を評価しているか 
    ○ 登場人物の心情や、作品の語っているものを的確にとらえているか
    ○ 著者の論旨を的確にとらえているか
    ○ 事実と著者の意見とを区別してとらえているか
    ○ 自分の意見・感想を率直に述べているか
    ○ 自分のことばで表現しているか
    ○ 発達段階に応じた考え方が表現されているか
    ○ 規定の文字数を十分に生かし、自己の思いを表現しているか
    ○ 読書によって得た自己の変革がみられるか
    ○ 規定の文字数を十分に生かし、自己の思いを表現しているか

 

あらすじは簡単でもいいですが
・自分がどう感じたか?
・本を読んで何を感じ、今後にどう生かすか?
・「似たような経験」の自己開示 → 高得点ポイントです

~読書感想文書き方のコツ・ポイント~

○ 発達段階に応じた適切な本を選んでいるか
課題図書もしくは同等レベルの本を選びます。芥川賞、直木賞、本屋大賞受賞作や過去の学年に応じた課題図書。変わりどころでは広辞苑や、同じ著者の本を数札読んで「著者について」の感想文も可能です。

○ 読書のよろこび、楽しみが感じとれるか
本作を読んでの驚きや感動や気が付いたことなどを純粋に表現する。

○ 広い視野から作品を評価しているか
登場人物1人だけに肩入れや攻撃せず、富太郎の祖母、妻、子供たち、東大の教授の心変わり、味方する友人、反目し富太郎を追い出したい一派、全国の植物採取の同好会の富太郎のファンや金銭援助をしてくれるタニマチの存在などなど、彼らとの関係や気持ちも汲み取り人間関係全体で富太郎がどういう人か?評価してみる。

○ 登場人物の心情や、作品の語っているものを的確にとらえているか
富太郎の心情や作品の語っているものについて。「日本中の植物採取を完成する」初志貫徹をつらぬいた富太郎ですがなぜ貧乏に屈することなく夢を実現できたのか?

○ 著者の論旨を的確にとらえているか
・富太郎の目標達成に揺るがない心の強さ
・地道な研究でも積み重ねることで世界的な成果となる

○ 事実と著者の意見とを区別してとらえているか
本書は牧野富太郎本人の自分語りというより、周囲の人から見た「富太郎像」。富太郎自身の言葉や考えを想像するのも良さそう。

○ 自分の意見・感想を率直に述べているか
富太郎の生き方をどう思うか?目標の為にマネをできる生き方か?共感や反感を感じる点はあったか?

○ 自分のことばで表現しているか
解説や感想サイトをパクらない。だが第2章の緒鞭一提(しゃべんいったつ)は参照になる

○ 発達段階に応じた考え方が表現されているか
中学生の課題図書として「科学や研究への意欲」のいざない本です。自分の目指す科学や研究テーマがあれば対比して語るのも良さそうです。

○ 規定の文字数を十分に生かし、自己の思いを表現しているか
起承転結もしくは気転結。時に登場人物への反感~自分の意見など文字数を計算しながら書く

○ 読書によって得た自己の変革がみられるか
「この読書から学んだ経験を生かして…」と感動と今後の抱負らしきものを書く

○ 規定の文字数を十分に生かし、自己の思いを表現しているか
主人公や登場人物への共感や同等の経験の自己開示など

富太郎は信念の人か?病気か?

牧野富太郎は長年好きな植物の研究成果で「日本植物学の父」と言われる第一人者となり、現代までも植物学研究をする人には神様のような存在になりました。
ですが研究を続けるためには、現実「金」がいります。
元々裕福な家の生まれの「お坊ちゃん」だから金に頓着しない性格とされていますが、本当にそうでしょうか?

富太郎は「ADHD」もしくは「人たらし」だった?

「ADHD」注意欠如・多動症
(別名:天才病)
・年齢に見合わない「不注意さ」
・好きなこと以外に対する集中力がなくほとんど関心や興味を示さない「多動性」
・思いついたことをよく考えずに即座に行動に移してしまう「衝動性」
・臨機応変が苦手。
・好きな分野や特異な分野では集中力の持続可能、ミスも少ない
・独自の視点や豊かな発想を持つことでその才能が開花
・衝動性も適切な方向で発揮することで行動力につながる(社会適応能力あり)

 
「ADHD」の天才
トーマス・エジソン、モーツァルト スティーヴン・スピルバーグ、ビル・ゲイツ、スティーブ・ジョブズ、ウィル・スミス ​ パリス・ヒルトン、
山下清(画家)黒柳徹子、武田双雲(書道家) さかなクン、栗原類、甲本ヒロト、深瀬慧(世界の終わり)堀江貴文、三木谷浩史(楽天)

「人たらし」
人付き合い方が上手く場合により相手をコントロールできるほど対人コミュニケーションに優れた人
・常に笑顔で人と接する
・ポジティブな考え方を持っている
・好奇心旺盛で人の話を楽しそうに聞き人懐っこい
・同性異性かかわらずモテる
・リアクションが面白いほど大きい、素直
・人間関係のためにはお金を惜しまない、気配り。
・誘いに対してのフットワークが軽い、マメ。
・他人を上手に頼る甘え上手
・見た目一見とにかく普通。一般的に「良い人」という印象
・だらしなくてもなぜか憎まれない、許される。

 
「チャラ男よりタチが悪い」と言われているのが「人たらし」です。
豊臣秀吉は下層の平民でしたが、織田信長に気に入られ出世したというのは有名な話。戦国大名であり関白まで上り詰めた人たらしの才能で天下をつかんだと言っても過言ではありません。「人の心をつかむのが上手な人」のことですが、「自然に出来る才能タイプ」と「自ら人たらしになっている努力タイプ」に分かれると言われています。

牧野富太郎という人物はどんな人か?


本書では牧野富太郎の生涯を通じての研究成果を称えるものです。
地味な研究の障害となるのが「資金力不足」「学歴不足」でした。
富太郎が貧乏過ぎて「海外に標本を売るしかない」となると新聞記者が「国家的に価値の高い文化資産を海外流出させるのは国の恥」と書くえぴそーそは、日本学術会議の任命拒否があったので「国の財産になる研究をしている学者に金の苦労をさせるな」という主張があるのでしょう。
ですが、富太郎本人は本当のギリギリまで金に頓着せず「研究一徹」の人で、周りの人に助けられながら成果を上げた人ですので、現代の資金不足になぞらえるには無理があるようです。
それほど牧野富太郎は常識で測れない人で、上記に上げるような性格じゃないと研究は続けられないのでは?と考察できます。
 
「ADHDの人うらやましぃなぁ」と思ってしまいそうですが、その症状の人全員が人生成功しているとは言い切れません。それに富太郎自身も嫉妬や妬みなどから、何度か東大追放されています。たしかにちゃんと学位をとり研究している人が小学校までしかいかなった人の研究に世間が注目するのは、おもしろくはないかもしれません。普通の人はこの本を読み「牧野富太郎のように、目標達成に向けて鉄の信念で頑張る」というのも、かなりのいばらの道です。
ですが日本人はもとよりオタク気質が強く「ものづくり大国日本」と言われるほど、一般の職人や技術者でも研究開発が得意な民族です。身近なところではアニメやフィギュア、イラストなどサブカルチャーの部門でも日本人の好きが高じすぎて、世界を席巻するのは日本の作品です。それは資金宣伝力の潤沢なハリウッドや中国作品よりも製作者の熱意が深く強く伝わっているのが感じられます。

熱意や目標、信念があって研究開発している日本の科学者の世界には、それを横取りしようと多国の研究者が入り込んだり、日本よりも金銭的・し好的高待遇な条件を出され研究の場を海外で移す研究者もいます。

研究者の仕事の成果とはむずかしく偉大なモノであるほど、膨大な時間や労力そして経済力も必要になります。その成果も生涯でいくつも発表できるものではありません。
富太郎のように祖母も妻子も研究者としての自由を許し、研究以外の心配はさせない協力体制で支えられたり、周囲の人の協力や経済的援助があって成し遂げた富太郎の成果は、決して一人で成し遂げたものとは言えません。
オリンピックに出場するようなトップのスポーツ選手なども幼いころから家族ぐるみでトップ選手になることを目指します。
大きな夢を叶えるということは、努力する才能に加え、資金を作るよりも純粋にそれが好きであることを人に伝え、仲間を作る能力の方が必要なのかもしれません。


読書感想文の書き方は経験者から学ぶ!

読書感想文の書き方には“正解”があります。
入賞作は審査員が気に入る読書感想文は「まじめで真剣に本のテーマを考えている」「とても正しい優等生な意見」が書かれています。
・「読書したうえでの学習効果が感じられるか?」と先生方は判断するからです。
自分なりの意見があっても反抗的だったり「いいと思います」「すごいと思います」などの単純な感想ではいい点数をつけてくれません。
何をいいと思うのか?前年の課題図書の読書感想文全国コンクールの入賞作品を参考にすると書き方のコツが身につきます。

【天使のにもつ】あらすじ・ネタバレ読書感想文の書き方


内閣総理大臣賞<中学校の部>
◆高橋英佑 秋田県 横手市立十文字中2年「言葉で治療する」(朝日新聞出版)


文部科学大臣賞 <中学校の部>
◆嶋屋涼子 埼玉県 越谷市立北中3年「天使のにもつ」(童心社)

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