「江戸のジャーナリスト葛飾北斎」読書感想文あらすじ・ネタバレ・例文と書き方の大ヒント 


北斎の作品を起用した「パスポート」「新札」の絵柄が見れます

「江戸のジャーナリスト葛飾北斎」

内容紹介:世界に誇る超有名人、浮世絵師・葛飾北斎とはどんな人物か。『富獄三十六景』がパスポートに、ビッグ・ウエーブこと『神奈川沖浪裏』が千円札に登場など、今も人気の北斎。情報の限られた江戸時代に、広く日本の外へも関心を向け情報収集し、90歳まで絵筆を執った超人北斎の、真の姿をあぶりだしたノンフィクション。

こちらでは
2022年「第68回 青少年読書感想文全国コンクール」中学生の課題図書の「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」の「あらすじ・ネタバレ」読書感想文の書き方のコツ・ポイントをご紹介いたします。

【読書感想文2022中学生課題図書】あらすじ例文・おすすめ課題図書紹介と選び方


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「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」あらすじ・ネタバレ・こんな人にオススメ 
「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」読書感想文の書き方の大ヒント 
「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」読書感想文・例文とみんなの感想 
うんちく・読書感想文の書き方は経験者から学ぶ!
 
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「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」あらすじ・ネタバレ・こんな人にオススメ

読みやすさ ★★☆☆☆
感想文の書きやすさ ★☆☆☆☆
こんな子におすすめ
・美術や芸術、何かを作るのが好き
・何かの道で究める人になりたい
・将来、世界を股にかけて活躍したい
・「変わっているね」と言われる 

 

「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」あらすじ・ネタバレ

1章 北斎を探る旅


●小布施の「北斎館」へ
長野県小布施町は北斎が80を過ぎて江戸から小布施に引っ越してきました。晩年特に力を入れたや錦絵が残されており、それらを展示の美術館「北斎館」もあります。

●「七小町」に見る北斎

「七小町」とは平安時代の女流歌人・小野小町を題にした七つの謡曲(能楽作品)の総称で北斎は小町の一生を描いた屏風絵を描きました。
「世界三大美女」と言われた女流歌人・小野小町の北斎も若い時から老婆になるまでを屏風にしています。小野小町を題材にした『九相図』(鎌倉時代の仏教画)もありますので、日本画の歴史的流れを北斎も踏まえていたようです。
著者談:北斎の森羅万象に対する知識と人の一生という、事実を事実として冷厳に観るリアリストとしての目は、江戸時代のジャーナリストであるかのように思え(瓦版売りはジャーナリストとは言いがたい「著者談」)元新聞記者として親近感をおぼえました。

●「ジャーナリストの目」

50歳 文永7(1810年)に取り組み始めた、鳥瞰図(ちょうかんず…鳥が上空から眺めたような視点で描いたもの)『東海道名所一覧』にも江戸い本橋から京都までを細かく描き込まれたエネルギー、細やかな神経・気力・想像力を感じられます。当時、仕事も順調で滝沢馬琴(日本で最初の著述家)の挿絵担当や『北斎漫画』も描き始めて知名度も確立されつつあったが、未知の分野に挑戦しています。
著者談:なぜ大変な鳥瞰図に取り組んだのか?森羅万象を見極めたい、高みに立って睥睨したい、空を飛ぶ経験をしたい…こんなところもジャーナリストの片鱗が見える気がします。
日々起きる新しい出来事にアンテナを張り、追いかけ、明らかにしていくそれがジャーナリストという職業です。北斎も1つの事や場所に安住せず、好奇心を持ち新分野に向かった姿勢にその片鱗を感じます。
ジャーナリズムの世界の表現「鳥の目と虫の目」(俯瞰的目線と近づき多角的目線)の両方が大切の例えがありますが、鳥瞰図はまさにそれです。

2章 生い立ち・浮世絵師への道

●生まれは本所割下水
北斎誕生:宝暦十(1760年)9月23日(諸説あり)
 下総国葛飾郡本所割下水(現:東京都墨田区亀沢)生まれで割下水とは田んぼの用水路を改造した掘割のこと。ウィキペディアより 
北斎は6歳の頃から、絵を模写するくせのある子供でした。

●貸本屋の小僧に
4歳 幕府御用達“鏡磨師”の中島伊勢の養子となります
10歳前後 養父の仕事は継がずで流行の貸本屋の小僧として働き始めます。この時貸本の絵に関心を持ったのでは?と言われ、画道を志します。
14,5歳 木版印刷の彫刻師の従弟(とてい)になります。浮世絵の行程の欠かせない役割。
16歳 『楽女格子』の一部を彫っています。

●浮世絵師・勝川春朗の誕生
19歳  浮世絵師・勝川春章(勝川派)への弟子入り。その才が認められ「勝川春朗」の雅号を与えられ浮世絵師デビュー。ここから15年勤務し、結婚、娘お栄も生まれる。
34歳 寛永6(1794年)密かに狩野派・狩野融川の門をくぐっていたのがバレ破門。雅号も返上。
だが最古参の兄弟子・勝川春好と不仲で嫌がらせを受けての衝突とも…。とはいえ北斎の敗けじ魂で「自分の画法が発達したのは春好のおかげ」と晩年語る


●一匹狼の北斎

35歳~(約10年) 勝川派を出て生活は苦しくなるものの、他の門派もたずね画力を上げていきます。俵屋宗理(光琳画法)…2代目宗理を名乗ることができ、版元(出版人)で浮世絵師の喜多川歌麿や東洲斎写楽を見出した蔦屋重三郎から見いだされブレイク。このころを「宗理様式の時代」の北斎の壮年期と言われます。
39歳 一方で琳派から独立、雅号・俵屋宗理を門人に譲り、雅号を次々変えていった。金に困って名前を売った説もある。

※この辺のエピソードは2021年放映の映画「HOKUSAI」でつづられています。本を読みにくい人は映画を見ると、理解しやすくなります。

●葛飾北斎、登場

47歳  文化三(1806年)葛飾北斎の雅号を名乗り始めます。
48歳~ 滝沢馬琴の『陳節弓張月』の挿絵で大ヒット。続編もづつき4年続くロングセラーで五編二十九冊までいきます。この時代は識字率も高く、社会情勢が安定し庶民の娯楽(読本、滑稽本、人情本)を貸本て楽しむ文化が流行りました。
52歳  絵に対する意見の相違で対立。北斎で馬琴と絶交


53歳 文化九(1812年)『北斎漫画』の下絵を開始、2年後に刊行し、十数年にわたるロングセラー
58歳 文化十四(1817年)名古屋西掛所(西本願寺別院)の百二十畳敷きで大達磨を描くパフォーマンス
60代後半 中風(脳出血)で倒れますが、半身不随、手足のまひなどの後遺症の程度はわからないのですが、その後も執念で画業を続けます。
72歳 文政三(1820年)~『富嶽三十六景』
著者談:北斎の画業のピークは、晩年に集中しいつの時代も高水準で、時代の最先端の作品を発表しています。「継続は力なり」と「人生百年時代」を二百年前に先取りした絵師でした。

3章 家族とその暮らしぶり


●結婚二回、子供二男四女
葛飾北斎は生涯に2度結婚(2度死別)しており、それぞれの妻との間に一男二女を設けています。
(合わせると二男四女)
養父:鏡師・中島伊勢→北斎4歳で養子になる
養母:吉良上野介の家臣・小林平八郎の孫娘。
妻(1人目)————————————————————
長男:富之助→ 祖父・中島伊勢の跡を継ぎ鏡師。放蕩無頼で借金を北斎が片付ける。死因不明の早世
長女:お美与→ 北斎の弟子・柳川重信と結婚するが息子を連れて離縁後、早世。
孫息子:お美代の息子。素行が悪く育ち借金を繰り返し孫から逃げ隠れるために、北斎80歳過ぎて小布施や浦賀に隠れ住んだとも。
次女:お辰(またはお鉄) 早世。

孫息子と関わりたくない北斎は、小布施時代に、毎朝小さな獅子「日新除魔図」を描いてその紙を丸めて捨てるまじないてきなをしていました《我が孫なる悪魔を祓う禁呪なり》

妻(2人目):こと —————————————————
次男:多吉朗(崎十郎〈元服後〉)→ 支配勘定・加瀬氏へ養子になり、同様の仕事に就く。崎十郎の息子・エイ次郎が北斎の墓を建てる

三女:お栄(葛飾応為→絵師の南沢等明と結婚するが離縁、北斎の元で助手で天才肌の浮世絵師となる。北斎の晩年の面倒も見ていたがお栄も無頓着な性分の似た者親子。北斎もお栄の美人画には及ばないと実力を認めていた
四女:お猶 →早世
著者談:江戸時代の平均寿命は30歳前後。子供も3人早世しているので、90歳で死亡の北斎は例外中の例外でしたが、滝沢馬琴(82)、小布施の恩人・高井鴻山(78)、師匠・勝川春章(67)と長生きした人もいます。

●引越し魔
北斎は生涯で93回引越ししています。
すべて借家で引っ越しを繰り返す理由として
・北斎とお栄が、絵を描くことのみに集中し、部屋の片づけができないから
・生涯百回引っ越すことを目標とした百庵という人物にならい、自分も百回引っ越してから死にたい
著者談:長く住めば近隣に知り合いができ、しがらみを断つために引っ越ししたのでは?(気づかいの人だったという解釈)
●ゴミ屋敷


北斎もお栄も掃除をしない「北斎ゴミ屋敷」だったのでそれを現したのが『北斎仮託之図』です。
幽霊の絵を描いていもらったお礼に来た名優・尾上梅幸が家の不潔極まりない状態に、敷物を引いて着座したところ、北斎は「失礼だ」と怒り出し無視いたので、梅幸も怒り帰ってしまった説があります。
後日、梅幸が非礼を詫びに来て2人は親しくなり、北斎は梅幸の芝居のご祝儀に蚊帳を売って金を作ったと言われます。
「9月下旬から4月上旬まではこたつをはなれない。人に会うのも、描くのも、寝るのもこたつ。布団にはシラミが多い」食事は店屋物と家財道具はほとんどなかったので引越も楽だったはずです。

●きわめて弊衣粗食
・衣服は一年中木綿、冬は絵を描くのに邪魔にならない半そでの半天
・杖に6尺あまりの天秤棒
・外出時は法華経を唱えながら歩き、すれ違う人は無視になるが失礼に当たらない。雑談する時間がもったいなかったという推測と自分の生活スタイルに幻覚で合理的かつ相手への気遣いを意識していた。
・「食」居酒屋のとなりに住んだときは全て出前。食器がなく土瓶と茶碗2、3あるのを隣の小僧に「茶」を入れさせて出した。描き疲れるとソバを2杯食べて寝る。
・飲酒・喫煙 北斎は酒を飲まないとされているが、小布施時代に「酒のつまみを求めた」手紙が残っている。
・健康 中風で倒れて以降、自ら柚で薬を作っていた逸話がある

●なぜ貧乏だったのか
北斎は金銭に無頓着で貯める気がなく、作品の画工料の包みを確認せず机に放置し、米屋、薪屋が請求にも中身を確認せず渡したので、多ければ着服され、少なければ催促されていた。また、孫の博打の後始末に追われ金がなかった節もある。絵の画材には金に糸目はつけないのも描けばすぐ売れたので、日々のくらしには困らなかった。
だが、天保の飢饉の時、版元もなくなり北斎は唐紙や半紙に人物や花鳥風月草木などを描き安価で販売したので、餓死者も出た飢饉を乗り越えることができました。
著者談:筆一本でなんとかしてみせる、断固とした自信があったのだと思います。
明日への備えは大事ですから、蓄える必要はありますが、使うべきところには使う。宵越しの金は持たないが、最上の顔料には金を惜しまない。人生でこの一点(画業)に集中しきったところが、北斎のマネのできないところです。

4章 海外情報への好奇心


●中国の古典に精通
北斎が生きた時代は鎖国中だったので、国交のあるのは中国・朝鮮・オランダ・琉球でした。北斎の作品には海外の文化がテーマの作品もあり、滝沢馬琴『陳節弓張月』は中国の『水滸伝』がオマージュとなっています。

●オランダ商館長(カピタン)との出会い
また徳川幕府からキリスト教を禁教の時代に貿易の窓口は長崎の出島でされ、対外貿易国のオランダは行動制限があるのですがそこでは貿易独占ができるメリットを持っていました。
オランダ商館・商館長(カピタン)も4年に1度の参勤交代があり、江戸に来た際に求められ絵を描き、北斎は海外情報や文物を入手する「日蘭交流」をしています。
葛飾北斎の名が長崎商館にも届いていたからです。そして商館のカピタンから「日本人男女の一生を描いた絵」2巻を150金で依頼を受け、随行の医師も同じ料金での依頼をします。

納品の際、商館長は契約通り150金を支払いますが、医師は「薄給なので半値75金でどうか」値切りだしたので、北斎はキレて「なぜ最初に言わないのか。同じ絵でも彩色を変えて75金でも仕上げられた。それに最初に売った人からぼったくったことになる」と怒り、更に医師は「それならば1巻を買う」と引き下がらないが、〈赤貧洗ふがごとき北斎、その約(束)に背きたるを憤り、二巻共に懐にして、直ちに家に持ちかかへりけり『葛飾北斎伝』〉と売らずに帰ってきました。
当時の妻は「このモチーフの絵ではよそでは売れない。損でも売った方がよかった。だから貧乏なんです。」と嫌味を言われたが「貧乏は分かっているけど、日本人は人をみて値段を変えると思われナメられることになる。」と反論した。
後日談として、通訳がこの出来事を商館長に伝えるとカピタンが同額で買い取り、この後長崎から毎年週百枚の依頼を受けオランダに輸出されるようになったが、幕府は「シーボルトって日本の国内情報を漏洩させるスパイじゃない?(シーボルト事件)」と判断し、北斎も輸出ビジネスは禁止されました。
著者談:この点から北斎の「国際派」の思考は、自分の損得より日本人全体の問題。内と外という視点。日本人の対外的評価を念頭に置いています。時代は違えど、外の目を気にしすぎる日本人気質に親近感を覚えます。著者はこの対外活動に「国際派ジャーナリスト・葛飾北斎」と命名したくなります。

●北斎はシーボルトと会っていたか?
この厚かましい医師はシーボルトではないか?と言われていますが、どうも違うようです。ただしオランダに北斎作品を運んだのはシーボルトです。

●外交使節、朝鮮通信使への関心
好奇心旺盛な北斎ですので、鎖国していなければオランダに行ったかもしれません。
海外への関心の高さは『東海道五十三次 十四 原』には朝鮮通信使一行が描かれていますが、北斎は彼らを見て言いないはずです。
著者談:著者の読みとしては、資料から想像を駆使して描いたのではなないか?と思われ、海外への関心の高さを見る思いがします。

●『富嶽百景』の朝鮮通信使
75歳 『富嶽百景』の発表でも『来朝の不二』として朝鮮通信使を描いています。
江戸時代後期になると、庶民の移動が許された旅行ブームの時代で『東海道中膝栗毛』弥次さん喜多さんのナンセンスな旅行記が流行り、これに乗っかり朝鮮通信使を題材にしたのでは?
著者談:当時は旅行類似本も流行り、歌川広重『東海道五十三次』発表の翌年、『富嶽百景』は出されますが北斎の作風は風景内での人物、風物も表情豊かで躍動感があり、同じ旅行記としても北斎の方がジャーナリスト感覚があります。広重も「北斎の不二は絵の構成をもっぱらとしている」オレのは「写実的な富士」と言っています。

5章 世界を魅了した『北斎漫画』


●道中で作品を生み出す
54歳 文化11(1814年)『北斎漫画』出版。文化9年に北斎が名古屋の弟子・牧墨僊宅のところでの滞在期間中に見たスケッチ300点を名古屋の版元、永楽屋東四郎が出版したのが始まり。当初増えすぎた各地の弟子への指南書の予定でしたが、一般の購買客に好評で、江戸時代のベストセラーとなり、全15編の北斎のライフワーク化した作品となります。北斎の死後29年、版元は北斎漫画をかき集め、他の絵師に書き写させやっと完成しました。

●森羅万象に注がれる「虫の目」
著者談:『北斎漫画』に「鳥の目と虫の目」の特に「虫の目」を感じます。
自然界、建物、人の動き、職人仕事などあらゆる事象の題材を細かく分類し、さまざまなアングル。様態でびっしりと緻密でたしかなデッサン力を感じ取れるからです。

●『北斎漫画』とシーボルト
当時のヨーロッパから見ると、マルコポーロが著した『東方見聞録』にも「黄金の国ジパング」としめされ、日本は宝の島でした。
オランダ政府に雇われたシーボルトが来た頃『北斎漫画』はシリーズ後半の時期で、5年の滞在期間中に文学的・民族学的コレクション5000点以上のほか、哺乳動物標本200・鳥類900・魚類750・爬虫類170・無脊椎動物標本5000以上・植物2000種・植物標本12000点と、禁じていた日本地図も持ち、しかも返却しなかったのでスパイとして国外追放されました。これを「シーボルト事件」と言います。
著者談:この時に『北斎漫画』も含まれており、事件の巻き添えにならなかったことで世界に葛飾北斎がしれわたることになり、世界のためには幸いと言えます。


●『NIPPON』への『北斎漫画』の登場
オランダ政府はシーボルトの持ち帰った資料に大よろこびで、英・米・露が日本との通商とその機会を練っていました。
安永8(1779年)ロシアは蝦夷地に通商を求めて現れ、寛政4(1792年)日本幕府に拒否されましたが諦めません。
寛政9(1797年)イギリスも蝦夷地、琉球、浦賀に来航し、再三通商を要求します
鎖国体制の日本幕府としては、諸外国からの開国圧力が強まる時代でした。
なので、シーボルトの功績はオランダとしては大金星で昇格させ、その後も日本関係の仕事につきました。自著『NIPPON』にバラした『北斎漫画』を資料として掲載しました。

●そしてライデンの今
フランスの銅板画家フィリックス・ブラックモンが、日本から輸入された陶磁器を包んだ紙が『北斎漫画』でソレに感動して画家仲間に北斎が広まったとの説がありますが、近年では疑わしい話と言われます。
シーボルトは安政6(1861年)に追放令が解除され、再来日しまた資料を山ほどもって帰国し、これらを披露する展示会をヨーロッパ各地で開催されました。

●北斎に魅せられた印象派たち
19世紀後半のフランス印象派の画家は日本の浮世絵師に影響をを受けています。1874年第1回印象派展覧会の頃、王立美術アカデミーの権力が強く、作品のテーマ(古典、宗教)、描き方にも指示が入り、30代の画家たちは反骨精神で社会風俗を取りいれていました。
そのころ浮世絵を見た画家たちが庶民を描く作風に、求めていたものへの手がかりをつかみ「ジャポニズム」ブームとなり、フランス絵画界に変化が生まれました。

●浮世絵で埋め尽くしたゴッホ
ゴッホは〈日本人は素描をするのが速い。非常に速い。まるで稲妻のようだ。それは神経が細かく、感覚が素直なのだ〉と『北斎漫画』の感想のような手紙がみつかりました。
特にゴッホは北斎に魅せられ、コレクターとしても5百枚ほどの浮世絵コレクションしました。現在作品hあゴッホ美術館に収録されています。

6章 生涯通しての現役絵師


●画狂老人卍
75歳 天保5(1834年)雅号を「画狂老人(がきょうろうじん)」「卍(まんじ)」の号を用いる。『富嶽百景』を手がける。
・天保の飢饉をアイデアで乗り切る(3章)
・横須賀、浦賀に雲隠れ(孫の借金節、オランダスパイ節、借金節)
80歳 火災に遭い、描き貯めた資料も道具も焼失。

●糊口を求めて肉筆画の世界へ
天保5~10(1834~39年)大量生産の版画から1点物の肉筆画を描きだす。飢饉で不景気な中、少し値のつく肉筆画も販売。
著者談:なぜ版画から肉筆画へ舵を切ったのか…「神妙なる高みの領域に」近づきたい思いもしくは、自分にしか描けない絵を目指したかも?天保11年の『椿と鮭の切り身』の晩御飯的な絵からピカソの『舌平目のムニエル』的、仕事、食事と線引きのない様子が似ています。

●四度もの小布施行き
83~89歳 天保13(1842年)
・信濃国・小布施の門下でパトロンで豪商農・高井鴻山(37歳)からアトリエ「碧漪軒(へきいけん)」を提供され、自由に絵を描く環境を整えてもらい4度訪問する。
・親友、戯作者・柳亭種彦が獄中死
著者談:種彦が拷問死を暗示する作品で抗議し、鋭い批判精神にジャーナリスト魂を物語っています

●壮大な祭屋台と天上絵
85歳 天保15(1844年)東町祭屋台『鳳凰図』
86歳 弘化2(1845年)上町祭屋台「男浪〈おなみ〉」と「女浪〈めなみ〉」
著者談:小布施には海がなく、北斎は小布施の人々へのお礼の気持ちや、「男浪」「女浪」を描くにも日本海に足をのばしたに違いありません。これもまた現場主義をモットーにするジャーナリスト魂ならではの事と私には思えるのです。

89歳 弘化4(1848年)『八方睨み鳳凰図』
小布施の曹洞宗寺院・岩松院の21畳敷本堂の天井一面に「どこから見ても見つめてくる鳳凰」が描かれました。北斎作品の中では画面最大のもので、色鮮やかなのは中国・清からの高価な鉱石と金箔が使われ、塗り替え等の修復をされることもなく今日に伝えられている。

著者談:「90歳手前の北斎にこれを描く気力体力はあったのか?」とされますが、浮世絵研究科の由良哲次説によると、「北斎独自の執筆と鴻山のアシストがあったのでは」と「チーム北斎」の作品との説が有力です。

7章 最晩年の日々


●意欲なお衰えず
89歳 嘉永1年『画本彩色通』
絵を描くための指南書
著者談:おそらく北斎は、自分がこれまで修行会得してきたものを後世に残したい境地に達したのです。
価格をおさえるために、装丁を粗末にしつつ、この時でさえ「90歳になってからは、画風を改め、百歳となった後については、画業をというこの道をひたすら改革する事だけを願うものです。」とまだやる気満々で「生涯一絵師」を名乗ってもらいたいところです。しかし、心の片隅で終わりを受け入れる悟りのような気持も芽生えて行ったのではないかと想像します。

●自らを龍に託した『富士越龍図』
著者談:『富士越龍図』 おそらく北斎の、絶筆に最も近い1枚。この龍が北斎その人ではないか、自分を龍に託していたのではないかと思いました。

●巨星・北斎の死
90歳 嘉永2年4月18日(1849年5月10日) 江戸・浅草聖天町にある遍照院(浅草寺の子院)境内の仮宅で『富士越龍図』制作の3か月半後没する。墓所は台東区元浅草の誓教寺。法名は南牕院奇誉北斎居士。
死を目前にした(北斎)翁は大きく息をして『天が私の命をあと10年伸ばしてくれたら』と言い、しばらくしてさらに言うことには『天が私の命をあと5年保ってくれたら、私は本当の絵描きになることができるだろう』と言って死んだ。
著者談:北斎の死の5年後、ペリー来航など北斎にはねがってもない時代の到来です。「国際派」でジャーナリスト精神を持ち合わせた北斎は江戸時代最後の社会や風俗を、生き生きと描いた…?

●その後のお栄
お栄は北斎の死後、悲嘆が大きく、安政4(1857年)に行方知らずとなります。
☆作者 江戸時代は女性が仕事で男性と対等に伍していくような社会じゃありません。お栄の作品は10点にも満たないところから「チーム北斎」として参加していたのではと思われます。


8章 北斎を復活させたロシア人

●帝政ロシアの海軍士官
ロシアでも日本に先駆けて北斎の魅力、ジャポニズムをロシアで紹介した人がいます。
1人目はセルゲイ・キターレフ氏(北斎コレクター&研究家)
1884年(明治17)ごろから海軍士官時代に北斎コレクションし、1896年大軍退役後、日本芸術展覧会、講演お開くなど浮世絵研究家として確立。日露戦争(1904~05年)に日本ブームが冷め妻子とともに1917年ロシア2月革命で日本に亡命。コレクションはモスクワ・ルミャンツェフ美術館に保管され、キターレフはそのまま東京で死亡します。

●キタ―エフ・コレクションとヴォロノワの出合い
1924年(大正13)コレクションは国立プーシキン美術館へ移動。
女性学芸員、ペアタ・ヴォロノワが所蔵の浮世絵研究のため日本語学習から始め、北斎論文を書き、国内の文化功労章を受章。

●ロシアの北斎展に小布施からも
1966年、ヴォロノワはソ連初『葛飾北斎展』に小布施市も作品貸し出しに協力しに北斎館が誕生するきっかけとなります。

●小布施町の顔・北斎館誕生
1976年(昭和51)小布施町に北斎館が誕生
近年のインバウンドブームに関係なく、外国人の来館者が多いのも特徴

●「時代の代弁者」
二人のロシア人により、倉庫に埋もれていた北斎コレクションが日の目を見て、今日の日本における北斎ブームの素地を作ります
東洋美術研究家アーネスト・フェノロサは北斎を≪時代の代弁者≫と呼びます。
著者談:ある一つの時代の社会の断面を自分の視点で切り取り、それを表現する人といいかえてもよいでしょう。
それはだれか、何者かと言えば、やはりその一番手はジャーナリストだろうと思います
「鎖国時代」にありながら、国外にも関心を向けた国際感覚も備えたジャーナリストではないかと直感した私は、フェノロサのこの言葉に我が意を得たりと、と思いました。
…浮世絵師はもともと時代の代弁者的な要素を秘めています。北斎は、もっともよく体現していたと言えるのかもしれません。
…浮世絵は新聞同様に大衆メディア的な側面ああります。
フォノロサは『浮世絵史概説』で《浮世絵が生きた美術であり得たのは、江戸庶民が存在した時期に限られていた。日本国家統一し、国際発展を遂げる中で浮世絵は犠牲になった。》
《今後如何なる事態になろうとも、これら身分低き絵師の、名声と魅力は決して消え去ることはない。北斎は今後何世紀にもわたり傑出せる指導者としてその名を留めるであろう》
北斎はジャポニズムのグレート・ウエーブとして世界に打ち寄せていると言ってもいいでしょう。

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「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」読書感想文の書き方の大ヒント

【読書感想文の応募要項】
・中学生の部 本文 2000字以内
(作文用紙400字×5枚)

 
字数が足りない場合は、以下のサイトの「文字数が足らない場合の対策」の部分が大変参考になります。
読書感想文の書き方 構成とコツ【中学生・高校生】コピペOK
 
 

青少年読書感想文全国コンクール審査基準
    ○ 応募規定にあっているか
    ○ 発達段階に応じた適切な本を選んでいるか
    ○ 読書のよろこび、楽しみが感じとれるか
    ○ 広い視野から作品を評価しているか 
    ○ 登場人物の心情や、作品の語っているものを的確にとらえているか
    ○ 著者の論旨を的確にとらえているか
    ○ 事実と著者の意見とを区別してとらえているか
    ○ 自分の意見・感想を率直に述べているか
    ○ 自分のことばで表現しているか
    ○ 発達段階に応じた考え方が表現されているか
    ○ 規定の文字数を十分に生かし、自己の思いを表現しているか
    ○ 読書によって得た自己の変革がみられるか
    ○ 規定の文字数を十分に生かし、自己の思いを表現しているか

 
あらすじは簡単でもいいですが
・自分がどう感じたか?
・本を読んで何を感じ、今後にどう生かすか?
・「似たような経験」の自己開示 → 高得点ポイントです

「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」作者からのヒント


本作の著者、千野境子氏は新聞社に勤めるジャーナリストです。
タイトルに「江戸のジャーナリスト」とつけることで、氏が敬愛する葛飾北斎への共通点と未来永劫、日本を代表するアーティストとして語り継がれる存在へのあこがれが詰まった1冊です。 

内容紹介と“はじめに”から…

・浮世絵師・葛飾北斎の人物像と人となり
・生誕260年なのに現代のパスポートや千円札に北斎の絵が起用されている
・現代も海外で北斎の絵が見つかってる
・「鎖国」の時代(コロナでの海外渡航禁止との共通点)に海外へ作品を発信
・90歳という長寿と死の寸前まで仕事に没頭していた
・作品の方が有名で、人物像が知られていない「人間・北斎」
・北斎からのメッセージを汲み取ってもらいたい

本書作者あとがきから…

・才能があった北斎は勝川派の先輩たちにねたまれて、イジメに会い破門された
・イジメたのに勝川派の面々と合同作品を作っている(不仲説に一石を投じた)
・若い人にこそ北斎の魅力を知って欲しい
・北斎と鴻山という、育ちも年齢も異なる二人が交流した理由への納得感
・北斎の作品を調べる事で感じた人の縁

「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」読書感想文・例文とみんなの感想

「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」例文

ジャーナリストとは、マスメディアに報道記事を寄稿する人のことを指す。ただし写真、動画を専門にメディアに提供する人や職業は通常、カメラマンと呼び、ジャーナリストとは呼ばれない。また報道以外へ寄稿する人もジャーナリストとは呼ばれない。類似の活動として野次馬があるが、ジャーナリストとの違いは報道記事として寄稿しないこと、本人の興味に影響されることである。
本作を読んでみて、自分には葛飾北斎がジャーナリストというより「天才的にビジネスセンスのあるカメラアイの人」という印象を受けました。
事実を事実として冷厳に観るリアリストとしての目。ジャーナリズムの世界の表現「鳥の目と虫の目」と言いますが、カメラアイとは、物事を瞬時に記憶できて、しかも忘れないで記憶を保持できる発達障害の一部です。 ※辞書には『カメラで撮影された状態を予測判断できる能力』と記載されています。
「鳥瞰図」のように「鳥が上空から眺めたような視点」も『北斎漫画』の「虫の目」のような細かく緻密でたしかなデッサン力。弟子が数百人いたとしても尋常ではない表現力で、天才以外の何物でもありません。
ゴッホは『日本人は素描が速い』と言いますが、瞬間的な人間や動物の動きを表現するには、努力の限界があると思うからです。フランス印象派の画家たちはプロの絵描きですし、才能はあります。でも北斎を凌駕できる力があったか?なかったから彼らは衝撃を受けたのではないでしょうか?
北斎は6歳から筆を持ち始め、浮世絵師になってからは寝食関係なく描き続けることに取りつかれています。
それはカメラアイの人が、一度見た記憶は一生忘れられないから「見た記憶を絵に描きだすことで脳から吐き出したい、吐き出さずにいられなかったからではないか?」と思うのです。
著者は北斎が作品のテーマを求め見たこともない外人の姿を描いてみたり、オランダ人とビジネスしたり、転居を繰り返すことに、好奇心や新しものの姿勢にジャーナリズム的片鱗を感じます。
ですが思うのは、北斎の絵は『北斎漫画』や庶民的な題材はどれもキッチュで愉快さを感じ、動きのない作品。風景や想像の題材、中国武人も龍も富士山もお堅いテーマは色鮮やかなのです。
絵はその人の心を表します。自分には北斎と言う人はジャーナリスト的に「誰かに真実を伝えたい」ではなく「オレの目で見た世界、見たい世界」を伝えたくてたまらない子ども心を持った人に思えるのです。
そこに悪意も作為もなく、「子どもが親に自分が好きなモノを見てもらいたい気持」共有感だと思うのです。そして年齢を重ね、弟子を数百人かかえる浮世絵師になっても北斎が望むのは生活の裕福さより、人々を「前よりも圧倒させたい」に尽きたから日々起きる新しい出来事にアンテナを張り、追いかけ、明らかにしていきたかったのでは?と思いました。
そう強く思うのは北斎のすべて絵から、ジャーナリストが伝えるような痛みや苦しみを感じることが無いからです。
瞬間的にとらえた題材にも北斎のワクワクする気持ちと愛を感じるから、2百年以上たっても世界の人の心に浸透していったのではないか?と思います。
ですが、北斎の天才ぷりは画力だけでなくビジネスセンスもずば抜けていたと思います。
飢饉で餓死者が出たとんでもない時代に安価な作品を出す一方で、上級国民向けの高額な肉筆画も出す。シーボルト?に結果日本のスパイとして日本の情報を絵にして販売する一方で、値切る客は価値を落とさないためにも売らない姿勢。全国数百の弟子のための描き方指南書『画本彩色通』を出すなど、かなりやり手だと思います。
でも、やり手なだけでなく尊敬とは別の「愛されキャラ」であったから、金持ちの弟子にアトリエを作ってもらえたり、何度も訪問してその地方の版元から『北斎漫画』を北斎の死後も引き続き出版され続けたりします。
圧倒的天才でありながら、プライベートは非常にだらしなく、金には執着しないけど絵を描き続けるための金の稼ぎ方は知ってる…葛飾北斎は浮世絵を描くために生まれた人としか思えません。
画家、漫画家、イラストレーター絵を描くあらゆる仕事の人にとっては、北斎は神様レベルで嫉妬にも及ばない浮世絵師なのだと思います。
北斎の生き方に学びたい人もいることでしょうが、北斎は100歳まで生きたとして自分の画力に満足できただろうか?と思うのです。
死期を悟っていたから晩年の作風があると言いますが、北斎自身はそれでも表現することにおいて満たされることのなくなくなったのではないかと思います。
世の中の人が人生に100%満足して死ねるわけではなりませんが、妥協や諦め、あこがれで終わったと言う人は山ほどいるでしょう。でも北斎は「絵を描き続けないと死んでしまう」ガキ(餓鬼)でもあった気がします。
そのあぶない浮世絵に対する執着心を思うと、絵のこと以外考えられない人生になりたいか?と問われると天才の苦しみを垣間見るような気がしました。
北斎の作品は海外から支持されて、逆輸入的に日本の文化の再認識で葛飾北斎は日本を代表する浮世絵師という確たる地位を位置づけました。
ですが日本人自らでそれに気がつけなかったのは、情けないことだと思います。今も日本は「黄金の国」なのだと思います。
北斎が庶民の生き生きとした生活を買い出し、それを見た人に温かい気持ちが沸き上がるように、日本人が「日常」と感じている風景には海外では考えられない素晴らしいものはきっとあると思います。
「隣の芝生は青く見える」ように日本だけでなく、他の国の人も自国の魅力を見つめなおして、愛国心を持つこと、「黄金を持っていた」と気づくことで人々は幸せになるのでは?と思いました。
ジャーナリズムとは、スクープだけを追うものでなく、持っている魅力の再発見を伝える事も必要だと思います。
世界に広がった北斎の魅力を自慢に思うとともに、今の日常の中から「コレってすごくない?」と気が付くジャーナリズムをいつももちつづけたいと思いました。 【文字数2451字】
 

「江戸のジャーナリスト 葛飾北斎」みんなの感想

課題図書だったから手に取ったものの、いきなりジャーナリストって言われても……え、ジャーナリストってどういう意味だっけ?と調べましたがいまいち腑に落ちず、肝心の絵も載っておらず、苦戦しております。著者は北斎が大好きなんだなぁというのは、大変伝わりました。 

北斎が好きで、結構類書を読んできたわけですが、それらとは紹介のアプローチを変えようという工夫が随所に凝らしてありました。ただ、そのことが北斎を知ることにつながったかどうかは難しいですね。
書名に「葛飾北斎」と書かれていれば作品が載っていると思うのが普通でしょうが、全く載っていないのには驚きました。せめて口絵に掲載するような配慮はあってしかるべきでしょう。

収穫は第8章「北斎を復活させたロシア人」のくだりでした。類書にない切り口で、知られざるロシアでの北斎研究や人気を伺い知ることができました。また、江戸時代のロシアと日本との関係にも言及してあり、美術史家の視点とは違うからこそ、本書と出会った価値はあったと思っています。
「キターエフ・コレクションとヴォロノワとの出合い(188p)」など、新鮮な気分で読み進めましたし、参考になりました。

とはいえ、それまでの内容は、北斎好きにとってはほとんど既知の事柄です。「人間・北斎」にスポットライトをあてたようですが、それなら多くの先行研究や関係本を読めば事足りますので。

北斎を「ジャーナリスト」として位置づけようという試みも無理がありますね。18pあたりに筆者の主張は書かれていました。北斎は画狂人として、現在のアーティストであり、デザイナーであり、漫画家やアニメーターのはしりでもあったのでしょうが、ジャーナリストの側面は伺いしれません。筆者は随所に北斎のジャーナリスト的なものを関連付けようとしていましたが、成功しているとは言えません。

80pの朝鮮通信使への関心や琉球使節、シーボルト(118p)関係もそうですが、絵師としての好奇心が全てを証明しています。ジャーナリストとしての感覚ではないですね。
「虫の目(108p)」にも言及していますが、それこそ絵師としての卓越した観察眼の証明でしょうから。

人間・北斎を描こうとした努力は理解していますが、一点も作品を掲載していない編集方針を見ますと、見方を代えると際物的な側面にもクローズアップしている気がしました。そこに違和感を覚える読者もいそうです。

北斎の人となりについては、これまでの「伝記」で語られてきた内容と同じで新しさはありません。鋭い批判精神を内に秘め、常に新しいことを探し求めてそれを描かずにはおれなかった北斎はジャーナリストであったとするトーンで書かれています。
 著者自身がかつて新聞記者であり、ジャーナリストという職業を高く評価していることが全編に滲み出ています。ジャーナリストがそんなに「エライ」のかい?と思ってしまいます。ただ、最後の8章で、これまであまり知られていなかったロシアでの北斎について知ることができたのは、著者のジャーナリスト魂によるものでしょう。しかし、いきなり、「対して」という表現の仕方や(122頁)、「版権」をいまだに使っている(118頁)などいただけません。 

アマゾンでこの本のことを知り、早速入手、一気に読みました。北斎の生涯を通覧することができて大変助かります。子どもも読者対象にした本なのでルビ付きです。北斎の作品に触れる機会はますます多くなっています。著者が言うように〈世界で最も注目されている日本人〉〈今も縦横無尽に活躍していて神出鬼没、目が離せない〉人物です。本書を読んで、北斎の作品を見たりその話題に接するときに、頭の中に整理する枠組みができたように思います。
北斎と親しく交わっていた人たちに取材した『葛飾北斎傳』(飯島虚心)の話が紹介されています。奇人変人のイメージがある北斎が、実はとてもこまかな気遣いをする人だったことを知り、急に身近な人物に思えてきました。産経新聞の論説委員長をつとめた著者がこの本を書いたのは、ジャーナリストの目で見て、北斎が「とても身近な存在」に感じられたからでしょう。鳥の目で見る、虫の目で見る、旺盛な好奇心で新しいことに挑戦する、裏付けを取る、などなど。世の中のことはすべていろんな見方がある、いろんなアングルでとらえることができる、ということを子供たちに伝えたいという意欲がひしひしと感じられる本です。
私は神奈川沖浪裏の波頭の先端に目を凝らした北斎を想像するとき、王貞治さんのピッチャーからの球が止まって見えるという話を思い出します。いろんな見え方があるものだな、と。 

 
 
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「江戸のジャーナリスト葛飾北斎」読書感想文の書き方【例文つき】

「江戸のジャーナリスト葛飾北斎」読書感想文テンプレート

入賞作品集(過去の入賞作品まとめ一覧)
 
 

去年の受賞作と感想文をチェック!!

読書感想文の入賞作は審査員の合格基準に達した書き方をしています。
一言で言うと「読書したうえでの学習効果が感じられるか?」です。
参考になる入賞作は大いに参考になります。
昨年の入賞作2点を参考に、書き方のコツを学びましょう。

内閣総理大臣賞 
<中学校の部>
◆広瀬健伸 茨城県 洞峰学園つくば市立谷田部東中8年 
「本気の「好き」のその先に」・・・「牧野富太郎 日本植物学の父」(汐文社)より

2023年度前期に放送されるNHK連続テレビ小説第108作『らんまん』で牧野富太郎氏をモデルに、朝ドラとして放送されます。主演は神木隆之介さんです。

「牧野富太郎【日本植物学の父】」あらすじネタバレ・読書感想文の書き方のコツポイント

文部科学大臣賞 
<中学校の部>
◆武藤さくら 福島県 郡山市立富田中2年
「言葉に思いをこめて」・・・「春や春」(光文社)より

メインの大賞のひとつ文部科学大臣賞は、去年の課題図書「牧野富太郎 日本植物学の父」が受賞しました。
2023年度前期に放送されるNHK連続テレビ小説第108作『らんまん』で牧野富太郎氏をモデルに、朝ドラとして放送されます。主演は神木隆之介さんです。

入賞作を読むと読書感想文の雰囲気がわかりますので読んでみることをお勧めします。

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